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月の行方

【第十話 取り戻したい時間】 4.帰らぬ昨日

 辺りが白々と明るくなってきて、ようやく落ち着いた。
 そのことで、客観的に今の自分の姿を見てみる。
 泥まみれで傷だらけの素足。旅をするには相応しくない軽装。しかもその服はほつれてたり、かなりくたびれている。
 例えるなら、火事にあった住民といったところか。
 何が言いたいかというと……この姿で町に入ればひどく目立つだろうということ。
 おまけに着替えは無い。下着の類は別として。
 荷物やお金の心配がない分、まだましなのだろうけど。
 泥で汚れた足を洗って、傷の治療をしてから布を巻きつける。
 靴の代わりとはいかないが、素足で歩くよりはマシだろう。
「なんて言うか……火事にあったみたいだな」
「……言うな」
 しみじみとしたユーラに、ノクスの返答も元気が無い。
「で。ここどの辺だろうな」
「適当に走ったからなぁ。北に向かったのは確かだと思うけど」
 町からの脱出時を思い出しつつ、ユーラは辺りを見渡す。
 そうは言っても森の中。道らしい道もなければ判断のしようも無い。
「樹に登って、高いところから確認でもするか?」
「それが一番かしら」
 仕方ないかとぼやいて、手近な樹に捕まってするすると登っていくノクス。
 適当なところまで登って顔をあげると、塀で囲まれた大きな城下町が森の向こうに見えた。
 一番近いのはあそこか?
 他に近いところに街か村はないかと、不自由な樹の上で目を凝らして探してみるが、どうやらあの城下町が一番近そうだ。
 下を見て仲間たちの姿と、上を見て太陽の位置を確認する。
 それからもう一度街を見て……ふと気づく。
「まさかあの街って……ウール、か?」

 文机の上に置かれた小さな石を前に、彼は小難しい表情のままで座っていた。
 まったく連絡が無い。
 一日に二度の連絡は必須事項だというのに、彼女からの連絡がまったく無い。
 これだから待機っていうのは嫌なんだよなぁ。
 はぁと深く息をついて、紺色の髪をわしわしと掻く。風が通り抜けるたびに風鈴の軽やかな音がするが、それも気を紛らわせるにはいたらない。
「スピカは琴の君のとこで、アルタイル殿のとこにはプロキオン殿がいるから大丈夫としても……なんでカペラから連絡が無いんだ?」
 不安な事に、末姫様からも連絡ないし。
 星を読もうにも曇っていては話にならない。一応他のもので占ってみたけど、波乱と出ては心配も募る。
「何かが動き出したか……それとも、誰かの思惑通りに動いているのか?」
 状況がまったく分からないのは痛い。
 頭を抱えていると、羽音のような起動音。
 ようやく連絡がきたかとほっとしたミルザムの耳に飛び込んできたのは、緊迫した男の声だった。

 布団に横たわる一人の美女。彼女の様子を診て、唸るようにミルザムは言った。
「……呪いだな」
「そうか」
 応じる声はまったく覇気の無いもの。とはいえ、診ている当のミルザムだって冷静とは言いがたい。
 同期で仲の良い仕事仲間が、こんな風に倒れて運ばれてきては。
 瞳は硬く閉ざされ、肌の色は青白い。
 うなされているものの熱はなく、逆に冷たいくらい。
「一応祓いはしたが……気休め程度にしかならないな」
「そうか」
 御祓いなども一応は出来るが、ミルザムの専門は星読み。
 これ以上出来る事は自分にはない。
 後の看病は他に任せて、それ専門の人を呼びに行くことが一番だろう。
 相手を促し、そっと隣の部屋へ移る。
「で、なんでカペラがあんなになったか……サビクは何か知ってるのか?」
 問われて、サビクは力なく首を振る。
「なら、何でお前そこにいたんだ?
 お前の役目はフリスト国内の諜報だろ?」
「ああ。それもあらかた済んだんで、ツァイトに向かってたんだが。
 妙に大きな魔法の発動を感じたんで、気になってそっちに行ってみたら」
「カペラが倒れてたのか?」
 問いかけにサビクは答えず、沈黙が下りる。
 先を促そうと口を開きかけて気づいた。サビクが震えていることに。
「いたんだ……」
 恐怖を必死に押し隠すかのように拳を作り、目の焦点を定めようとして……それも出来ずにいるサビク。
 一体何がいたというのだろう。
「……が」
「何が?」
「……『鬼』が」
 ミルザムがその言葉の意味を理解するよりも早く、サビクは言い募る。
「鬼がいたんだ、一つの街に二頭も!
 理由なんて知らないさ! ただ街門に立ってた。門番みたいにな! 夜が明けてあいつらが消えて、それで痕跡の強いとこに行ってみたら……倒れてた」
 一息に言って、そしてまた黙り込む。
「鬼か……」
 確かにそんなものに呪われてはひとたまりも無いだろう。
「って待て! 北の姫は?!」
 カペラはかの姫の護衛をしていたはず。
 彼女がこんな目にあっているなら姫は――
「少なくとも怪我はされていない」
 青い顔したミルザムに、そのことには気づいていたのか、冷静に答えるサビク。
「血痕等はなかったし、鎧や靴はそのままだったが、武器は無かった。
 逃げられたと思う……それに、せめてそのくらいの足止めはと思ったんだろう」
 最後の言葉はカペラに向けてのもの。
 ミルザムもサビクも、内心のいらつきを何とかするだけで手一杯だった。

 遠く見える祭具殿を眺めて、聞きとがめられないほどの息をそっと吐く。
 自分は、間違っているのかもしれない。
 御簾の向こうにはたくさんの部下が控えている。
 しかし、利権争いに明け暮れている者達の誰を信じて良いのか、誰が信じられるのか? 民が幸せに暮らせるのなら別に今のままでも良いではないか。何ゆえ北斗と争うことがある?
 そんな思いを抱いていた自分が見せた、幻ではなかったのだろうか。
 脳裏に浮かぶのはある夜のこと。寝苦しい日だったと覚えている。
 ――取引をする気はないか――
 恐ろしい声だった。
 聞いては、応えてはいけないと分かっていた。けれど。
 ――そうすれば。その座から下りる事も可能――
 そのことばに、惹かれた。どうしようもなく。
 自分がお飾りの『昴』なんてことは分かっている。
 平凡な人生を歩みたい。それはわがままな事だろうか。
 だって本当は、この座に着くのはわたしじゃあなかった。
 そしてなにより。
 ――先々代の昴の三の姫を、一年の間都に繋ぎとめておくだけでいい――
 相手の望みがとても他愛無いものだったこと。
 応えてはいけない。けれど……応えてしまっていた。
 そして今、あの祭具殿の中に彼女はいる。
 夢だったのかもしれない。弱さが見せた幻だったのかもしれない。
 自分のこの行動で、何が起きるのか分からない。
 それでも。
 『明』は明になりたかった。

 何度進言しても彼の方は否といい続けた。
「ご心配される事はありません。証拠など残さず、琴の君をお連れ致します」
「そうは行きません」
 懇願するようなスピカに優しい眼差しで、それでもベガは否と告げる。
 ここの所、ソールの神殿内は警備が手薄だ。
 此方を誘っているかもしれないし、別の理由かもしれない。
 ほんの一瞬。
 それだけあれば、この牢獄からベガを助ける事が出来るというのに。
「わたくしのことに構わず、そなたはグラーティアを守りなさい」
 ぴしりと言い切る主君にスピカは反論できない。
「未来ある若者を守るのが第一。すでに退いたわたくしのことは良い」
「ですがっ」
「そなたの忠誠がわたくしにあるならば従いなさい」
 こう言われてしまっては反論できない。
 ラティオたちがここを出てから数日後に、グラーティアはアルカから離れた街の神殿へ移された。
 その時にも同じ命を賜って、護衛でついていったのだが……やはりベガのことも気になり、戻って説得の最中。もっとも、簡単に折れてくれるようなベガではないのだが。
「グラーティアを利用させるような真似を許してはなりません。
 マルスの二の舞を演じさせるつもりですか」
 畳み掛けるように言われてしまっては、もう白旗をあげるしかない。
「畏まりました。祝の君をお守りいたします。この命に代えても」
 その答えに、ベガは満足そうに笑った。
 不満たらたらの表情でスピカが消えてからも。

 こつんと音を立てて、盤上で駒が進められる。
「邪魔者達たちはひとまず遠ざけた」
 白いローブの聖職者は駒を前に考える。
 どの駒を進めるべきか。『奇跡』を手にするために、効率的な方法は?
「セラータにもあるということだけは分かっているが……さて」
 あの国の王は妄信的なソールの教徒だ。
 とはいえ、こと『奇跡』となると、話は簡単ではないだろう。
 それに最近の噂では王が亡くなったとも言われている。
 手駒が減るのは痛い。
 さて、どうするべきか。そう悩んだ瞬間。
 あちこちから悲鳴が響いた。
「何事だ?!」
 怒鳴るように廊下に立っているはずの見張りに問い掛けるも返事はなく、代わりに轟音を持って扉が壊された。
 粉塵の向こう、最初に見えたのはやけに赤い色。
 そこからぬっと太い腕が沸いて出る。
 赤いと思ったのはそのオーガの肌の色で、大きな角と牙。探るような目。
 その姿を目にした瞬間、指一本動かすどころか思考までもが凍りつく。
 ぎょろりとした大きな目が法王を捕らえ、興味なさそうにすぐに移動する。
 思考と周囲の音が戻ったのは、その『怪物』が背を向け、完全に見えなくなってからのことだった。
「な……んだ、あれは」
 かすれた声で、返事のない問いをかける。
 あんなモノは見たことは無い。アレに人の身で敵う筈が無い。
 まさかアレが。『魔族』。
 その考えに至った瞬間、法王が憶えたのは怒り。そして使命感。
 だというのならば、あんなものの存在を許す訳にはいかない。
 神の名にかけて。人に災いをもたらすものを殲滅(せんめつ)する。
 喧騒は収まる事を知らなかった。

 永かった。
 単純にそう思う。
 もっと早くに行動していれば、何か変わったろうか?
 その考えに頭を振る。
 早く行動していれば良い方向に変わったなんてことは無い。
 むしろ、行動しなければ良かったのだ。
 すべての元凶は、あの日あの時の愚かな自分。それを償う方法すら、さらに罪を重ねるだけだというのだから目も当てられない。
 周りの喧騒など耳に入らない。
 これを成せば……ひとまず流れは変わるだろう。
 ひととき流れを変えるためだけに、背負うには重い罪。
 だが、今更それがなんだというのだ?
 信頼を裏切ったのは自分。守るべきものを見誤ったのも自分。
 今度こそは間違えないようにと考えたこの道さえ、正しいとは限らないのではないか?
 畏れは歩調を鈍らせる。阻むものはもう居ないというのに。
 しかし歩めば終りは来る。
 飾り気の無い白き扉。これが最後の砦。
 意を決して、それを開く。
「待ちかねましたよ」
 その声に、自然と落ちていた視線を上げる。
 窓を背に凛と立つその姿はかつてと変わらず威厳に満ちて、神々しいほど。
 きっちりと結われた天上の青の髪。心の中まで見通すような紫の瞳。
 思わず錯覚する。昔に戻ったと。
 しかしその淡い感傷を打ち砕く白装束。
「すば……る」
「とうに退位した身ですよ」
 やんわりと注意され、彼の決意が揺らぐ。
 ただ間違いを重ねる事にならないか? 今ならまだ間に合うのではないか?
 だが。
 今更迷ってどうする。
「御首を頂戴します」
 何とか苦渋の色を隠して宣告する。
 彼女は穏やかに微笑んだまま――それを是とした。

 ぽたりと一粒雫が落ちた。
 突然の事に周囲のものは多いに慌てる。
 本人も何故泣いているのか分からないのか、なんでもないと繰り返すが、それでも涙は止まらない。

 何で悲しいのか分からない。
 ――でも悲しいから、小さな少女は思い切り泣いた。

 何かとても大切なものを失った気がする。
 ――それが悲しくて、少女は仲間にすがりついた。

 何かとてつもない間違いを犯した気がする。
 ――そんなこと認めたくなくて、こどもは声を殺して泣いた。

 何が起こるかなんて理解していた。
 ――だから泣く事なんて出来ないと、おとなは自らを責め続けた。