【第三話 光陰】 5.届かない手
立ったまま楽々歩けたのはある一定の距離までで、しばらくすると秘密通路に相応しいほど幅は狭まり、また高さも減じていった。
「ティア……狭くない?」
「仕方ありませんわ。無理やり通路を作ったのですもの。
それから、なるべくお静かに願います」
たまりかねて訴えるソレイユにグラーティアはむべもない。
だが、大声を出して気づかれては元も子もないことはソレイユにだって分かるからおとなしく黙る。
そうして沈黙が落ちれば、自分達の歩みの音しか聞こえなくなる。
敵陣の真っ只中といっていい場所。
緊張しないはずがない状況なのだが、妙にリラックスしている弟達。
適度にリラックスしているのは悪いこととは言わないが、もう少し緊張感を持っていてもいいだろうに。
つい小言を言ってしまいそうになるが、ノクティルーカは黙る。
ソレイユはともかく、グラーティアは見た目どおりに平静ではいないだろう。
ウェネラーティオの言葉を信じるならば、彼らは生まれたときからソール教に『囚われていた』。
母や叔父達を教会に奪われたも同然とはいえ、長年育った場所でもある。
抱く思いはノクティルーカのように単純ではないはずだ。
「もうすぐ出ますわ」
押し殺した声に意識を戻され、そこに至ってようやく気づく。
自分達の行く手――すなわちあの部屋に誰かがいることに。
戦いの折に、気配なんてものを感じたことなんてついぞないけれど。
いるという確信があった。
しかし、制止の声を出す前に一筋の光が入り。
「あら、見つかってしまいましたわ」
なんとも緊張感のない少女の声が聞こえた。
「出てきて大丈夫ですわよ」
おっとりとした少女の言葉に、弟が何かを振り切るようにして部屋に降り立つ。
「ティアって意外と大物だよねぇ」
大物というか、何も考えてないんだろう。
口には出さずにノクティルーカも続いて部屋へと降りる。
あのときは、突然タペストリーが翻ったかと思った瞬間、グラーティアが飛び出してきてびっくりしたものだけれど。
室内はあの時とさほど変わってないように思えた。
広々とした殺風景な部屋にかけられたタペストリー。
備え付けられた家具は流石に変わっているが、質のいいシンプルなもの。
他に違うところといえば、設置された寝台の数。
たった一つきりだったあの時と違い、二つ並んで収まっていた。
が、そのうちノクティルーカたちが出てきた壁側の寝台に、子供が一人寝転がっていた。
さっきのあの台詞はこいつへのものか。
警戒心がないなと思いつつも彼は子供を眺める。
黒髪に映える金のサークレット。
街中でリゲルを睨んでいた子供に間違いない。
眠りの術には抗いきれなかったのだろう。
顔をゆがませながらも呼吸は規則的で、意識はとうに手放している様子だ。
リゲルはそんな子供を複雑そうにしばらく見ていたが、すぐに移動することを提案してきた。
無論否を唱えるものなどいない。
長居をすればするだけ、侵入がばれる可能性が高くなる。
先導するグラーティアについて移動をはじめた。
潜入はほぼ完璧。
気を抜くことは言語道断だが、順調に進んでいる。
あえて気にかかることといえば、かすかに鈍く痛みを訴え続ける左手。
存在を強調し続ける『奇跡』。
ここが教会だからだろうか。
教会がいくつの『奇跡』を所持しているかすら分からないというのは悔しい。
確実に在り処が分かっているものは二つ。
ノクティルーカの持つ石と、ポーリーの叔母にあたるアースが持つ石。
残り十個がどこにあるかはまったく分からない。
忍び込んだついでに奪えることができればとも思わなくもないが、それは難しいだろう。きっと最奥で守られているだろうから。
隠し通路を何度も移動し続けることしばし。
ようやく目的地とも言える書庫にたどり着いたらしく、グラーティアは本棚の間をきょろきょろと移動し続けている。
あまりおおっぴらに動き回らないで欲しい。
パタパタと軽やかに本棚の間を行き来する少女を見て思う。
先程のようなことがあったらまずいと、予め書庫内に向けて眠りの術を使ってから侵入したのはいい。
実際、司書らしき人物が机に突っ伏して眠っている姿を見れば間違った対応だったとはいえないし。
だが絶対に起きてこないという保障はできないのだから。
肝が据わっているというか大胆不敵というか。
ラティオの妹だよな。改めて。
嘆息しつつ、ノクティルーカは警戒を怠らない。
背に隠した壁――退路となる隠し通路をしっかりと守る。
リゲルは入り口側の警戒を担当し、窓にはソレイユが張り付いている。
「ありましたわ!」
抑えられた声量にも拘らず、隠しきれぬ歓喜の色。
ホクホクとした顔で少女は本を胸に抱き、ノクティルーカの元へやってきた。
「これですわこれ! さ、ノクス様読んでくださいませ」
「そんな時間ないだろ」
「分かっていますわ。さあ逃げますわよ」
本をしっかりと抱えなおし、いざ隠し通路へと向かうグラーティア。
壁に手をかけた瞬間に、漣のように歓喜の声が響いてきた。
「……ばれたか?」
「いえ、それにしては反応がおかしいかと」
剣に手を添えるノクティルーカに対し、リゲルは疑問の声をあげてそっと窓辺へと近寄る。
声は外から聞こえた。
祭を行っていることでもあるし、盛り上がる場面なのだろうか?
興味をひかれたのかグラーティアもリゲルに習い窓へ近づく。
何かが行われていることはわかる。けれど、他の建物に隠れて何も見えはしない。確認しようとする暇があるのならば、この場から逃げ切った方がいいことは分かっている。
けれど。
――いと高き場所に居られる神よ。偉大なる太陽。我らのソール。
聞こえてきた太陽神への賛歌に彼女の表情が固まる。
その瞬間を見ていたリゲルはそっと視線を外した。
目を閉じてそのままグラーティアは踵を返し、進言する。
「行きましょうノクス様。はやくこれを読み解かなくては」
「……ああ」
戸惑うように口を開きかけて、それからようやく同意した兄。
ソレイユは少しだけ疑問に思ったものの、おとなしくグラーティアに続いてまた狭い通路へと戻った。
そして、室内にはリゲルだけが残される。
小さく漏れ出た息は、酷く重いものだった。
誰がお前達のものだ。『我ら』から奪っておいてぬけぬけと。
「戯言を」
つぶやいた声に応えるものはいない。
けれど。
この地に未だに残る負の記憶。それがリゲルに訴える。
――奪われたのは『ソール』だけではない。
――我らの昴も、唯一と定められた導すらも害された。
「分かっています」
応えぬ声に苛立ちを込めて答える。
それは有名な話だ。人の口に上ることが多いからこそリゲルも知っていた。
だからこそ――
「もう、奪わせない」
誓いを残し、リゲルは通路へと身を躍らせる。
次代の導を助けるために。
その背へと過去の亡霊は同意を示す。
――これ以上奪わせぬために動くのは当然だ。
――けれど。だからこそ。
この世のものではない声は訴えた。
――奪われたものを取り返してくれ。
応えることはできない。
今はまだ成すことができないことをリゲルはもとより――グラーティアが知っていたから。
神殿の最奥。白く塗りつぶされた牢獄に閉じ込められた太陽を、どれだけ救いたいと願っていても。