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ナビガトリア

【第一話 天文黎明】 1.帰らぬ日々

「派手にやっちゃいましたね」
 まるで単なる世間話のように彼女は言う。
「悪意がなかったのは分かってますよ。
 結局は……こんなことになってしまいましたけど」
 そう、これを……この事態を引き起こしたのは、他ならぬ自分なのだ。
 顔を見られたくなくて俯いたままの私にため息ひとつついて彼女は語りかける。
「夜はいつまでも続くわけではありませんし、いつまでも道がないわけでもありません」
 その声は叱るわけでも諭すわけでもない。
「間違わないで生きるなんてできるわけないのですから。
 起きてしまった事を悔やむよりもそれを償う術を探すほうが建設的ですよ?」
「悔やまずにいられません」
 ボソッと返事を返すと、やれやれといった感じでそれでも彼女は言葉を紡ぐ。
「夜道が怖いのは下ばかり見ているからですよ?
 いつかきっとあなたの道を示す星が見えるはずです」
 その優しさが今は辛いのだと、この人は気づいていないのだろうか?
「そろそろ時間です」
 監視の声がする。
 これで最期だ。ちゃんとした別れを告げよう。
 顔を上げて見慣れた――そして多分もう見ることの無い――彼女を見る。
 小さい頃からこの人には心配ばかりかけてきた。
 知識も愛情も惜しげもなく注いでくれた、優しくて厳しく容赦ない師匠。
 雪の色の長い銀髪はいつものように背中で結われて、まとった黒いマントに良く栄える。
 濃紺の服の腰に佩いた一振りの剣。
 最初に見たときはこんな女性が振えるのかと思ったものだが。
 それがとても懐かしい。
 気遣わしげな色違いの瞳がアポロニウスの姿を映している。
 彼女の瞳に映る自分がぎこちなく笑うさまが妙におかしくて。
「長い間お世話になりました。
 すみませんでした……こんな馬鹿な弟子で」
 皮肉にならないように、悲しい顔にならないように。
 自分はちゃんと笑えているのだろうか?
「少しくらい愚かなほうが人間らしくていいですよ」
 鈴振る声であいかわらずすごいことを言う。
 師匠のあまりの変わらなさに自分の立場も忘れて苦笑する。
 この人は本当に……切ないくらいに厳しくて、残酷なくらいに……優しい。
 夜の帳が下りてきて、小さな窓の格子を抜けて冷たい光が降ってくる。
 白銀の髪が煌いて彼女を淡く浮き上がらせる。澄んだ微笑を浮かべてすっと佇んでいるその姿。
 実はこの時間帯がすごく好きだった。月に照らされた師匠はまるで女神のようで。
 こんな神様に見守られているのならば、世界も悪くない。そう思えるほどに。
「ありがとうございます。わたしの弟子でいてくれて。
 あなたの行く道に幸多からんことを」
 幸が多いわけが無い。
 そう答えることもできないまま、ただ頷いた。

 きぃきぃ。
 ロッキングチェアの音が規則正しく空気に溶ける。
 暖かな日差し。緩やかに吹く風。
「気がついたかしら?」
 クスクスと笑みを含んだ老女の声にアポロニウスははっとする。
 このところどうも意識が途切れがちだ。遠い昔の事がこんなにも鮮明に思い出せる。
 それはつまり。
「もう。黙ってないでちょっとは話し相手になってくれないと……」
 残念そうな声で老女は言う。アポロニウスの思考を感じ取ったのであろうか?
「ますます張り合いがないじゃあないの」
 老女は気性の激しい人だった。しかしそれも仕方のないこと。付き合いの長いアポロニウスは良く知っている。
 周囲を欺き、自分さえも騙さなければやっていけなかったのだ。周囲の冷たい視線にさらされ、細い体で精一杯に頑張ってきた。愚痴一つもらさなかったけれどいつも厳しい顔をしていた。
 隠居してようやくのんびり出来るようになって……その表情は幾分の和らいだというのに、彼女はすっかり老け込んでしまったように思える。
「あなたをね。譲ろうと思うのよアポロニウス」
 アポロニウスは黙ったまま答えない。
 またか……またなのか?
 焦燥が胸を突く。こんなにも自分は情けない。力が、ない。
 ただでさえ気を抜けば、またあのまどろみに落ちてしまいそうになる。
 それはいやだ。それだけは、嫌だ。なのに。
「私はもうこんなおばあちゃんだし。気に入ってくれた人がいるのよ」
 ああなのに。抗えぬ眠りのごとく近寄ってくる嫌な感覚。
 せめて彼女は。彼女の事は見送りたい。
 いつもいつもこうなのだ。もう嫌だもう繰り返したくない。
「きっとあなたも大丈夫よ」
 その声を最後に、アポロニウスの意識は闇に溶けた。

 暗い意識の中。声を聞いたような気がした。
 よく知った声と知らない声。若い女性のものである事は確か。
 すっと動かされたような感覚がして、譲られたんだと理解した。
 声が遠くから響いている。
 何を言っているのかも分からない。何も考えられなくなって、また闇と同化する。

 諦めてしまえばいい。この思いも一時の事。
 諦められるはずもない。この後悔は永遠に。
 いっそ、このまどろみから覚めることがなければいいのに。

――あなたの行く道に幸多からんことを――

 幸などありません。だからどうか終わりを下さい。

――夜はいつまでも続くわけではありません――

 朝が来ました。でも、また夜がやってくるのです。
 明けぬ夜がないことを知っています。でも。
 暮れぬ昼がないことも知っているのです。

――いつかきっとあなたの道を示す星が見えるはずです――

 終わりを告げる、星が見たいです。