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月の行方

【第十話 取り戻したい時間】 2.闇の足音

 空には大きな満月。
 風はそれなりの暖かさを持って吹き、それに乗って虫の音が時折聞こえる。
「で」
「ユーラ、声大きいよ」
 言い募ろうとした彼女を制して、司祭がおどけた口調で言う。
 しかしその言葉とは裏腹に、眼差しはひどく鋭い。ゆえにユーラも大人しく忠告に従う。とはいえ、こう距離が近いとどうしても落ち着かないのだが。
「それで……何であたし達はこんなとこにいるんだ?」
 跳ね上がりそうになる声を抑えて、ユーラは聞く。
 二人が今いるのは、宿に植えられた木の上。位置的には丁度ノクスたちの部屋の少し下辺り。そんなところに夜通し陣取るというのは正気の沙汰とは思えない。
「うーん。確かにもうちょっと面白いことになるかと思ってたけど……
 意外にあっさり寝ちゃったっぽいしね」
「何が言いたいんだ、お前は?」
「あれ? わからないの?」
 おどけて言って、彼女が怒り出さない内に真面目な顔を繕う。
「ま、冗談はさておき。
 これだけ餌をぶら下げておけば、何か反応があるかなって思ってね」
 案の定文句を言おうと口を開いたユーラは、突然話題を変えられて少々あっけにとられ、意味を把握しきれず反芻する。
「えさ?」
「そう」
 首肯して、今はぐっすり眠っているであろう二人のいる部屋に視線をやる。
 アースから散々話を聞かされていた(祖父の)従妹。年上のさだめとして、やはり守ってやらないといけないかな、とは思う。多少は。
「気をつけたほうが良いよ、ユーラ。奴らはいつ何時仕掛けてくるか分からないからね」
 確信をもって告げる。
 問答無用で殺される――その可能性は低いだろうとラティオは見ている。
 ある意味合理主義の法王は、ポーラの利用価値を高く評価している。
 だからこそ、利用させてなるものかと決意を固めているのだが。
「奴らって……ソール教会の?」
「それだけじゃなく、『昴派』の連中とか、セラータの奴らとか。
 あとなんといっても、ここはもうツァイトなんだから。ノクスは狙われて当然だろ?」
 これだけの相手から守ろうとしてるんだから、俺ってほんとに働き者だよねぇと明るく言うラティオに、何故か同意の声は上がらず、不思議そうに問い返される。
「何でノクスが狙われるんだ」
「あのねユーラ。隣国同士ってのは大抵領土問題でもめてて仲悪いものでしょ」
 特にツァイトはここ最近の小競り合いやらなんやらでアージュに負けっぱなしだから、鬱屈したものは抱えてるだろう。
 まあ、先にけんかを売ったのはツァイトだし、アージュにしたって虎視眈々と領土拡大を狙っているのだから、どっちが悪いとか言う話にはならないが。
「アージュ出身だからって、そこまで嫌われるもんか?」
「まがりなりにも、かろうじて王族の端っこに引っかかってればねぇ」
「あいつ王族なのか?! あんななのに?!」
 ため息交じりに言った言葉に、心底驚かれた様子で問い返されて、今度はこっちが驚く。
 しばしの沈黙の後、改めて聞いてみるラティオ。
 先ほどの言葉は聞き間違いであったと願うように。
「……本当に、知らなかったの?」
「知らねーよ。あいつ自分のこと話さなかったし」
 いや。普通そんな身分をぽんぽんばらすものじゃあないと思うよと内心で突っ込みを入れて、それでも諭すように言ってみる。
「でもさ、多少は想像ついたんじゃないの?
 ポーラの幼馴染で、君の父上の恩人の子なんだよ?」
 他国の人間だって言うのに幼馴染になるってことは親同士の交流があるからで。
 ベガが除外できることは簡単に分かるだろう。
 何せ彼女、この数百年はあの離れからほとんど出ていないのだから。
 となれば父親関連……セラータ王妃の従兄であり、騎士として名高いアルタイル将軍と交流のある相手となる。
 彼と親しいというのだから、それなりの身分があるのだと思わなかったのだろうか?
「だから、なんでそこでアージュの王族に行き着くんだよ」
「アルタイルさんの幼馴染。そしてユリウスさんが頭が上がらない人物といえば?」
「誰だよ?」
 もはや考える事を放棄したんだろう、つまらなそうに聞いてくるユーラに言い聞かせるようにゆっくりとその名を告げる。
「戦女神ソワレ。奴は彼女の次男だよ」
「……は?」
 目が点になるという例えがぴったり合うように、その一言を発したままユーラはしばし固まり、何かわめきだす前に口を抑えてもう一度言い聞かせる。
「はい騒がない。不思議がらない。狙われる理由はわかったろ?」
 半ば呆然としながらも頷くユーラを確認してから手を離し、ラティオは再び視線を上に戻す。納得いかないとぼやくユーラに苦笑を隠しきれなかったけれど。

 夢を見ていたのだと思う。
 その内容は憶えていなくて、でもただただ『悲しい』という感情のみが残った。
 目をあけると仄かに明るい室内と、暗い天井が見えた。
 何の夢か分からない。
 でも、ひんやりとした感覚はあって……頬が少し濡れていた。
 眠りながら泣いていたんだから、よっぽど悲しい夢だったんだろう。
 ……目が冴えちゃった。
 半身を起こし、涙をぬぐってポーラはため息をつく。
 出来るだけそっと寝台を離れ、備え付けられていた水差しのそばへ行こうとして、小さなうめき声に足を止める。
 もう一つの寝台に視線をやって、丁度こっちを向いていたその顔が目に入る。
 あ、そっか。ユーラの声と違うと思って当然で、ノクスといっしょの部屋だったんだ。
 ぼやっとした頭でそれを考えて、ギョッとする。
 薄暗い室内で、それでも見えた彼は……苦悶の表情をしていた。
「ノクス?」
 問いかけに応えはない。
 恐る恐る近寄ってみても、起きる気配はまったくない。
 本当に苦しそうにしている事が分かって、逆に困る。
 うなされるような悪い夢を見ているのなら、起こした方がいいのだろうか?
 揺り起こそうと肩に手をかけようとして、シーツにしみが一つ出来た。
「あれ?」
 ぽろぽろと、いくつもの雫がこぼれる。
 自分の意思に反してこぼれる涙。
 この感覚は覚えがあった。
 彼女は他人の強い感情に引きずられてしまう事がある。
 感受性が高いとか、共感しやすいとか色々言われたけど……実際は血筋に関係ある力らしいが詳しい事は分からない。ただ分かるのは、この涙はポーラではなく、本当はノクスが泣いている――泣くくらい悲しい思いをしている――ということ。
「悪い夢を、見てるの?」
 問いかけに、ノクスからの応えはない。
 しかし、ポーラの投げかけた言葉は、別の意味での現象をもたらせた。
 ノクスの寝台の向こう。月明かりの届かぬドアの方から、ゆっくりと黒いモノが染み出してくる。闇そのもののような、羽虫のような。輪郭のない『黒』が集まり、形をとっていく。
 それに反応するかのように、ぴくりと小さくまぶたが震えた。
 ゆるゆると開かれた瞳は、焦点を結ばぬまま虚空を見つめ、安堵したかのような吐息が口から漏れる。
 何かに気づいたか、視線が自らの肩のほうに下ろされ、そこから順に上がっていき。
 傍目からも分かるくらいに彼は固まった。
「ノクス……」
「ポーリーッ?!」
 かすれた声で名前を呼ばれて、ノクスは跳ね起きる。
 確かに、枕もとに人がいたら驚くだろう。そして何より。
 何で泣いてるんだよッ
 起き上がってみればそれだけ距離が近くなって、逆光で分かりづらかった顔がよく見えた。明らかにぼろぼろと泣いている。見間違いじゃあない。
 自分が何かしたんだろうか?
 いやいや、ついさっきまで寝ていたんだからそれはない、と思う。
 なら、何か悪い夢でも見たんだろうか?
 おろおろしているノクスを見てポーラも気づいたのか、あわてて手の甲で涙をぬぐい、なんでもないと笑いかけようとして――固まった。
「ポーリー?」
 問いかけに応えはなく、彼女の顔色はどんどん悪くなっているようにも見える。
 固まったままの彼女の視線を追って、ノクスは振り返り――同じように固まった。
 見慣れない人影がそこにあった。しかしそれは決して人ではない。
 闇よりも暗い、黒い肌と巨体はトロルを思わせるが、話に聞くユニコーンのような立派な角は、あの種族は持たないはず。
 一つしかない大きなその眼に認められて、身動きを取ることすら叶わない。
 彼らは知らないだろう。
 この存在が『鬼』と呼ばれるものだということも。
 この鬼によって、アースとの合流が叶わなくなった事は、尚更の事。

 鬼の登場を待ちわびていたかのように、満月が雲に閉ざされた。