037:流れた水はもう還らない
思い返してみれば、見事にしてやられたとしか言いようが無い。
全部全部仕組まれていたのだと、気づいてしまえば確かに茶番だった。
容赦無い量の書物に埋もれるようにしながら鎮真は一人ごちる。
「鎮真様ー。お勉強頑張られていますかぁ?」
のんきな茜の声が癇に障る。
「頑張らなきゃだめですよぅ? 跡継ぎ様なんですから」
そう、答えだった。
叔父ははなから実子の敦馬ではなく、甥の鎮真を跡継ぎにと考えていた……らしい。
新年の挨拶にと集められた家臣たちにそう宣言したときには比喩ではなく真っ白になった。
母のところにいる『はず』の『鎮真』に使いが出され、城にいた『志津』には母親の元へ行くようにという命令が出され、元服の儀はつつがなく執り行われた。
鎮真に戻ったことで『志津』がいなくなってしまうことへの一応の言い訳。
とはいえ、こういったことはあちこちの家でも過去に前例がある話なので深くは追求されない。
一度恨みがましく文句を言ったことはある。
けれど、姫として育てるのは災いを避けるために良く使われた手であると言われてしまえば大きく反論できない。
このことは本当に一部の者しか知らなかったんだろう。
父・龍真を慕っていた部下たちは勢い良く振り上げた拳をどう下ろそうかと困惑していたし、叔父・景元に忠誠を誓っている者達はただただ真っ白になっていた。
最後まで不満を言い続けていたのは敦馬を推していた一派だが、流石は狸叔父、早々に後継を決めておけと言ったのはお前達だろうと言ってのけた。
無駄な争いをしなくて済んだのはいいことなのだが、なんだろう、このやるせなさは。
元服を済ませ、無事に元の立場へと収まった鎮真の日常は、それはもう忙しかった。
忙しい毎日ではあったけれど充実もしていた。
新しいことを覚え、国を統べる者として自覚を持ち勉学に励むことは幸せだった。
そして、それは起こった。
知っていた、分かっていたはずだったこと。
真砂でも後継者争いがあったように、星家でもそれが起こりうることに。
『自分達』の国がヒトから攻められることがあるということを。
早駕籠に揺られながら何とか動悸を静めようと試みる。
北斗に招集がかかった。
慶事ならば前もって連絡が入るはずで、そうでない場合は……
何が起こったというのだろう。
鎮真を次代の破軍として紹介できると景元は言っていたが、その雰囲気は決して穏やかなものではなく、都で待つ情報が悪いものとしか考えられない。
いくつも悪い想像をしてはそれを振り払い、しかし不安は拭いきれず。
結局、予想以上の最悪な事態だったことを聞いたのは、翌日になってからだった。
火影七夜の治める真朱の里で、徒人に降嫁された想姫のご息女が発見されたこと。
内地にあるはずの里に他国から兵が攻めてきたこと。
敵兵はほぼ全滅に追い込み、政治的にどう対応するかは話し合い中だという。
攻め込まれた里は壊滅状態だが、ご息女――朧姫は無事。
死傷者は多数。
そして一番の問題……現姫が重症を負ったという。
007:願いはただ一つ
天下泰平の世の中。
この国で大きな戦が起こることなど、長く誰も考えたことはなかったろう。
野盗ならば物騒ではあるけれど珍しいことではない。
けれど。『軍』に攻め込まれることは考えたことなどなかった。
慌てている面々の中で、唯一あの子だけは落ち着いて見えた。
ここへは、師匠である彼女の体調が思わしくないということで見舞いに来た。
無論それだけの理由であの子がおいそれと出歩くことなんてできないから、それなりの理由を作って、この里までは男装してきた。
もちろんここにあの子の素性を知るものはいない。
あの子が師と仰ぐ彼女だって知らない。
綿密に重ねられた嘘の上、『幻日』と同じように架空の存在としてあの子は振舞っている。
何の変哲もない日のはずだった。
けれど正直、わたしは彼女を好ましく思っていない。
あの子に『奇跡』を渡した相手だったから。
でも、あの子は彼女を慕うから、嫌いにもなりきれなくて。
あの子が彼女を背に庇ったのはとっさのことだった。
ここが宮中だったなら飛び出していくような真似はしなかっただろう。
あの子は本来、守られるべき立場の人。
誰を何を犠牲にしても生き延びなければならない、ただひとりだけの星継の御子。
けれど、あの子は同時に戦う者。
三種の神宝が一、『日輪の剣』を唯一使いこなす存在。
だからこそ過ちを犯した。
あの子はここで『現』じゃあなかったから。
執拗に彼女を狙う凶刃を制し、彼女を連れて逃げる翁達を一人守る羽目に陥って――いや、翁達の狙いはそれだったんだろう。
嫌な予感に、立場も忘れて叫んだ。
わたしの声に気づいたのか、それとも殺気に気づいたのか。
あの子が身を翻した時には少し遅かった。
暗い色に染まる衣。巻き込まれた数本の髪が妙に鮮やか。
ちがう。『奇跡』はこの娘が持っている。
濡れた刃を手に、一人の翁はこう言い放ったのだから。
とくんとくんと規則正しく聞こえる鼓動。
浅くはない傷だった。けれど跡形もなく消えてしまったのは、悔しいけれどその内に潜む『神』の御力あってのもの。
食欲もとっくに戻っているし、ここまで絶対安静をする必要はないのかもしれないけれど。姉上たちは過保護すぎるくらいにあの子を心配している。
わたしも、あの前後のことは思い出したくない。
危ない目にあわないで欲しいのは山々だけど、それは無理だと分かっている。
思えば、ずっとこうして見守ってきた。すやすやと眠る半身の姿を。
願いは変わらない。
どうか――生き急がないで欲しい。
わたしは無理だったから。
戦う定めにある誰よりも守られるべき人。側に寄り添うはその半身。見守ることしかできぬもの。 08.05.07
077:思い出せない、あのひと
とろとろとまどろみながら現は思う。
最初に気づいたのも、こういった夢と現の狭間にいたとき。
強く感じる誰かの視線。
決してぶしつけなものではなくて、見守るといった表現が相応しい暖かいもの。
小さな時からずっと感じていた。
この視線の主が知りたくて、何とか頑張って起きてもそこには誰もいなくて。
つい先ほどまで感じていた優しい雰囲気も、跡形もなく消えていた。
それが生きている存在でないことはうすうす感づいていた。
私を生んですぐに儚くなってしまった母親かもしれないと思ったこともある。
けれど……違う気がした。理由なんて分からない、ただの勘だけれど。
憶えている。
夢のように輪郭はないけれど。
憶えている。
泡沫のように儚くとも。
ずっとそばに、いつも一緒にいたひとがいる。
それだけは憶えていた。
目を覚ませば、先ほどまでは感じ取れていた眼差しと存在が掻き消える。
自然と漏れたため息に気づいてもどうしようもない。
寝返りだけを打って、また目を閉じる。
なるべく寝て、早く回復させるようにときつく言われているせいもあるけれど、眠っていればそばにいてくれていることが分かるから……
脳裏に甦るのは、初めて聞いた懐かしい声。
――現あぶないっ――
斬られた事も師匠の真実も、怪我の痛みよりも何よりも――強く響いて。
だけど。
その面影は深い霧の中。
その思い出は遠い日の昔
ずっとそばにいてくれた人を、思い出せない。
名前を呼んでくれたあの人の名を、思い出すことができない。
誰より近い存在は、誰よりも遠くへと追いやられる。
それは彼女を想う故。それが『彼女』の願い故。 08.05.14
「題名&台詞100題 その一」お題提供元:[追憶の苑] http://farfalle.x0.to/
起こってしまったことを変える事は出来ない。 08.04.30