正気に戻れ
ぺしんっと音が鳴る。
意を決して行ったはずなのに、それでもやっぱり苦いものが広がる。
叩いた自分の手はちょっぴり痛い。ということは、彼女の手だって多少は痛いはずなのに、なんの反応もない。
彼女の顔を包むように両手を添え、真正面から顔を合わせてみても同じこと。
本来とても不敬なことだけれど、かつての主――彼女の姉の面影が残る相貌は冷たいまま。紫の瞳は紗がかかったように焦点が合わず、能登を素通りする。
「姫様」
諦念と哀愁と。様々なものがこもった呼びかけにも応えはやはり――ない。
声を失う前から言われていた。決して狼狽えぬように、と。
現の心はずっと前から決まっていて、五感を失う恐怖に耐えきるほどに強靭だった。
だからこそ、ここで能登が狼狽える訳にはいかない。
姫に直接言葉をかけられるような身分の相手は、国内にいない。
必ず侍女を――つまり能登を介して話をすることになる。だからこそ、姫がこのような状態でも誤魔化せると……頼まれたのだから。
深く深く息を吐く。ゆっくり吸う。
貯めこんだものを吐き出して、余計な感情を排除する。
今、一番やらなければならないことは? 成さねばならぬものは?
自身に問いかけ、心を無理やり落ち着ける。
優先することは? 自身の役目は?
分かっていても問いかける。
閉じていた眼を開ければ、先ほどと変わらぬ様子の姫の姿。
痛みを無視して、笑みさえ浮かべて語りかける。
「怖い夢でも見られましたか? 大丈夫、能登がおそばに居ります故」
この状況を知られてはならない。だからこそ、姫様は私に託されたのだ。
「どうぞ、能登にお任せあれ」
お題提供元:[もの書きさんに80フレーズ] http://platinum.my-sv.net/
嘆いている暇などない。託されたことを為さねばならぬ。