lycoris-radiata
【第三話 花の都と彼女と縁】 2.内より出でる声
室内に、ぱらりぱらりと紙を捲る音だけが静かに響く。
手元の明かりだけを強くして、コスモスはレポートを読んでいた。
いつもと違うところといえば、ペンダントのチェーンに一緒に通されたイヤリングの存在だろうか。
「元々はビオラがこの役回りだったみたいね」
『戻ってこない相手を待つより、お前を使った方がいいと思ったんだろう』
不満を訴えれば、わかりきっていることを返される。
「能力を買われてるんだって思えばいいのかしら?」
当然だろうと同意して、同じようにレポートを眺めていたアポロニウスが呟いた。
『それにしても、ずいぶん詳細だな』
「本当、かなりのレポートよね」
被害者の数は十二人。最初の被害者から数えて今年で十年目。
とりつかれた日時――これはまちまちか。
それから取り付いた幽霊――彼女の記憶のかけら。
今年もそろそろ被害が出ると言う推測。
事細かにレベッカの字で書かれたレポート。
これは、今年で決着をつけるという決意が込められているのではなかろうか。
『十年か、何も出来なかったのか』
「一定期間……長くて七日。
それを過ぎると何事もなかったように離れていく……って。
この短期で調べて解決っていうのは難しいわね」
常時起きている異常なら掴みやすい。だけど、ほんのわずかな時間――それも時期が一定していない――異常を解決するのは難しい。調査はそれなりに時間が必要なのだから。
だからといって、時間があれば解決するというわけでもない。
それならば、七百年もの間アポロニウスがこのままでいるはずがないのだ。
彼の師匠である賢者は一流の……いや、超一流の魔導士。
運やタイミングも事件解決には必須なのだろう。
『それにしても、監査が目的だったのなら何もこの件を手札に使う必要はなかったんじゃないか?』
心底不思議そうなアポロニウスのにコスモスも否を唱えない。
「魔法の道具の不法所持とか、怪しいとこから攻めればいいでしょうに、何もこんな厄介な事件と同時捜査しなくっても……あー」
文句を言いつつページを捲り、いとも簡単に疑問は氷解する。
『どうした?』
「ここ、ここ。被害者一覧見て」
ぴしぴしとレポートの半ばを示すコスモス。
使われている言語は古代語だが、彼にとっては馴染み深いものだろう。
なにせ、この字が使われてた時代に生まれ育っていたわけだし。
『レベッカ・スノーベルと書いてあるな』
「おまけでマルク・ヴァレリもね」
呆然とした彼に補足する彼女。
二人そろって被害者ならば、何とかしようという気も起きるだろう。
むしろ、自分が被害にあったからこそ必死に調べたともいえる。
「もしかしなくても大叔母様たち、ビオラに憑かせるつもりだったのかしら」
『だろうな。他には何か書いてあるか?』
「んー、大体は読んだと思うけど」
ぱらぱらと捲って確認するものの。パタンと閉じて彼女は大きく伸びをする。
「正直もう限界。眠い」
『そうか。もう深夜だしな』
時計の短針はとっくに真上を過ぎている。
今日一日どたばたしていたのだ。疲れは出るに決まっている。
ベッドサイドのテーブルにアポロニウスごとペンダントを置いて、その上からハンカチをかける。寝顔や朝の着替えを見られるのはごめんだ。
「悪いけど……寝る」
『ああ。おやすみコスモス』
優しいその声に挨拶を返しベッドにもぐりこむと、コスモスの意識はあっという間に闇に溶けた。
かすかな歌声が聞こえた。
小さく低く、淀むことなく夜の空気に広がっていく。
星明りの差し込む中庭で男が一人立っていた。
聞いた事のない言葉で紡がれる歌。
普段は凛々しい後姿がとても寂しいものに見えた。
最後の音が空に溶けてから『わたし』は控えめに呟く。
「きれいな歌ですね」
「ありがとうございます」
最初から気づいていたんだろう、振り返った彼は少しだけ照れくさそうに見えた。
こんな時間に家族でもない男性といるところを見られたら、父や兄に叱られるだろうと思いながらも言葉を重ねる。
「聞きなれない響きでしたけど、どこの言葉ですか?」
「古い言葉ですから、ご存じなくて当然ですよ」
答えになっていない答え。それでも返事があったことが嬉しい。
「どんな歌詞ですか?」
話が出来るだけでいい。それ以上は望まない。望めない。
この人は、いずれ祖国へと帰られてしまうのだから。
「星に願いを、月に祈りを捧げよう。夜の魔法が解けるまで」
サビの部分だろう。
紡がれたワンフレーズは小さな子どもに聞かせるように優しい声で。
「きれいな言葉ですね」
心の中で反芻して、『わたし』は空を見上げる。
ちらちらと瞬く星と針のように細い月。
夜の魔法があるのなら、もう少しだけでいい。解けないで。
「なんという歌なのですか?」
「この歌は……」
努めて明るく問うた『わたし』に、あの人が応えてくれる。
暗く静かな部屋の中に、一つの影が浮かび上がる。
ベッドからゆっくりと降りた影は、幼さを残した少女のもの。
光源の少ない部屋の中でも目立つ金の髪がゆらゆら揺れる。
「『行かないと』」
呟きは二つ。
うつろな瞳のままに少女は――少女の姿をしたソティルは部屋を抜け出た。
夜の街を少女が一人、ふらふらと歩いていく。
夜着のまま素足でぺたぺたと石畳の上を行く。
すれ違う人の視線も声も気にならないのだろうか。
何かに導かれるようにソティルは歩いていく。
行かないと。あの場所で待っていないと。
だってあの人は迎えに来てくれるといったのだから。
ひたひたと往く彼の後ろに、柄のよくない連中が一人二人ついて行く。
先ほどからなにやら話しかけているが反応はない。
ただただ歩みを進めるソティルに業を煮やしたのか、先頭の若者が手を伸ばした。
肩を掴んで強引に行く手をさえぎろうとしたのだろう。
しかし若者の手がソティルを捕まえる前に凍りつく。
ぽつぽつと、ソティルを囲むように揺らめく炎が現れた。
炎はそのまま空に留まり、球となる。
例えるならそれは、未練を残した人の魂のようで。
悲鳴を上げることもままならず、若者たちは腰を抜かしてその場にうずくまる。
見えていないはずがないだろうに、ソティルはやはり、ためらいなく歩みを進めた。
ゆらりと火の玉が動く。彼の行く手をさえぎらぬように。
彼の行く手を阻むものを許さぬとばかりに付き従う。
人通りのない街路の先に広場が見えた。
あそこに行かないと。あそこで待っていないと。あの人を。
「はい、そこまで」
宣言は短く。衝撃は鋭く。
うつろな瞳が大きく開かれ閉じられる。
前へと傾いだソティルの体は、地面に激突することなく受け止められた。
規則正しい呼吸を繰り返す相手を確認して、薄は彼を担ぎ上げる。
「まったく危ないったらないな。おまけに人の仕事も増やしてくれて。
戻ったら起こして説教するか」
気絶させた本人が言うにしてはあまりにもな言葉。
ソティルが聞いていたらなんと言うことだろう。
「いっそ引きずって帰るかな?」
『もう少し丁重に扱いなさいよ』
そして、聞いていた人はやはり流すことは出来なかったらしい。
げんなりとしたコスモスの声が風に運ばれてきた。
「丁重ですよ? 夜中に突然魔法使ってまで起こされて、町の中を走らされても文句は言いませんよ、公女のご命令ですから」
『それは文句じゃないわけ?』
大仰に肩をすくめて嫌味たらたらの薄の言葉にげんなりと返すコスモス。
彼女の意を示すかのように、薄たちの周囲を今だ漂う火の玉が揺れた。
「いいえ?
公女が露払いと誘導をしてくださったお陰で楽は出来ましたよ?」
『まったく口が減らないんだから』
せめてもの仕返しか。火の玉がほんの少しだけ膨らんでから宙に消える。
その様子を眺めつつ薄は感嘆の息を吐いた。
火球を維持し、ソティルを傷つけることなく移動させ、あっという間にかき消す。
これだけのことをしておいて制御は下手だと言い切るのだ、彼の主は。
『ちゃんとソティルを連れて帰ってね』
「御意」
久々に実感した主の実力が嬉しくて、薄は恭しく頭をたれた。
しかしコスモスはそれを嫌味ととったらしい。
瞬きを一つ。白い壁とそこに映る自分の影だけが視界に入る。
「ふー」
ため息をついてそのまま横に倒れ、枕に顔をうずめた彼女に、労わるような声がかかった。
『疲れたか?』
「そりゃあね」
昼間も透視をしたし、何より今日一日が慌しかったから疲れていないわけがない。
寝転がったまま顔だけアポロニウスの方へ向ける。
ハンカチをかぶせているから、彼から見えない事は分かっていたけれど。
「ありがとうね。アポロニウスが気づいてくれなかったら危なかったかも」
『何もなかったならいいんだ』
アポロニウスは眠らない。
というより、石に魂が封じられているのだから食事も睡眠も必要としない。
彼の意識が途切れるとしたら、持ち主から十分な魔力を得ることが出来なくなったとき。
そう、前の持ち主からコスモスに譲られるまでの間のように。
『ただ、厄介だな』
苦い口調のアポロニウスに、コスモスもまじめな声で応じる。
「ソティルに憑いてるのって今までの人と同じように街門にいる幽霊と見ていいわよね」
『十中八九、そうだろうな。
ソティルの霊感が強かったか、霊媒体質だったか、単に運が悪かっただけか。
もしくは同調したか』
「同調?」
『幽霊は未練や想いを残しているものだ。似たようなものを抱えてる人間にひかれやすい。それが原因でとりつかれることもあるし、中には生者の体を横取りするほど根性入ったのもいる』
正直それは根性というものだろうか?
反論したい気もするが、今問題なのはそこではない。
「詳しいわね?」
『父が司祭をしていたからな。
対処法も知ってはいるが、今の私の状況ではどうしようもない』
あっけらかんと答えるアポロニウス。
そうか、アポロニウスは幽霊退治も出来るのか。
そういった事件のときには働いてもらおう。
「ちなみにどんなの?」
『こちらで浄化するか、あちらに満足してもらって未練をなくすか』
本人に告げることなく決定して、ひとまず今回の対処法を得るべく問いかけると、つまらないほど普通の返答。
「浄化の術なんて使える人がどれだけいることやら」
浄化や治癒というと教会をイメージする人が多いと思う。
このあたりで信仰されているのは太陽神ソールを奉るソール教会だが、ここと魔法協会は決して仲が良いといえない。
昔、『ソール教会に所属しない魔導士はすべて邪悪』という暴論が通ってきた時期があった。それに反発して魔法協会が立ち上がったようなものだから、今でも互いに協力を仰ぎづらい面がある。
『師匠は確実に使えるが、本人を捕まえるのが難しいだろうな』
「賢者様を引っ張り出してきたら、それこそ大事になるわよ」
ただでさえ監査だのといった話が出てきているのに。それにアポロニウスが言うように捕まえるのが難しい――時間がかかるというマイナス面もある。
「言いたい事あるなら出てきてくれれば楽なのに。そのほうが話早いのにっ」
『落ち着け。そうなると同化してどうにも方法が取れなくなるのと紙一重だぞ』
「う」
思わず両腕を上げて訴えれば、アポロニウスの冷静な言葉で却下される。
無論コスモスもそれは望むことではないので振り上げた腕をおとなしく下げる。
『明日また考えろ。休んでおくことは重要だ』
「そうね」
時計は深夜を指している。いい加減休まないといけないだろう。
仄かなランプの明かりは妙に優しい感じがして、消してしまうのが惜しい気もした。
「二度目だけど、おやすみアポロニウス」
『おやすみ。良い夢を』
与えられた時間は少ない。明日は少しでも進展があるように。