【第十一話 希望の行方】 4.心にある絶望
湯船につかると知らず息を吐いた。
あたたかい。
やっぱり体は冷えていたからほっとする。
「お風呂なんて久しぶり」
思わず笑みが洩れる。
こんなに温かくて気持ち良い。アースといた頃には結構入っていた。
体の芯から温まる。そうして少し冷静になった頭で考える。これからのこと。
ふと視線を下げれば、ゆれる水面に心配そうな少女の姿。
髪を結い上げてるせいで短く見えて……幼い子供のころのよう。
でも、あの頃とは違うから。
本当に何も出来ない小さな子供だった頃とは違うから。
きっと、少しでも何かできるはず。
「髪も洗っちゃおうかな」
無力な自分の幻影を振り払うようにポーラは髪をほどいた。
運ばれてきた膳は小さいものだったけれど、物珍しさからかユーラは感嘆の声をあげた。
「へー。面白いな。テーブルで食べないんだ」
「ええ一人一人別の膳です。ユーラ様は苦手なものなどございませんか?」
「大抵食べれるぞ」
外見子供のガーネットと相性良いのか、きゃいきゃい騒ぐユーラとは対照的にラティオは一人こっそり火桶にあたる。
「なんだラティオ寒いのか?」
「ええ。とても」
そんな彼が面白いのか話し掛けてくるアルクトゥルスに、ラティオは平坦な声で返す。
正直する事が無くて手持ち無沙汰なのはノクス。
お客様だからゆっくりしててとナシラに言われたものの……何もする事が無いというのはやっぱり暇で。
風呂に入って着替えたことで、気分はさっぱりしているけれど。
ぼんやりしてると急に寒気がきた。ここは大陸の北端に近いって言うし、風邪ひいちゃマズイから火桶にあたりに行く事にする。
「ノクティルーカ。こっちが空いてるぞ」
来い来いと手招きされたので素直に近寄っていくノクスに対し、アルクトゥルスはどこか不満そうに彼を見つめる。
「性格は違うんだけどなぁ」
「は?」
怪訝な顔で呟けば、渋面のままに彼は言葉を連ねる。
「いや甥に『心』ってのがいるんだけど、誰に似たのかすっごい性悪でね。
……兄者はあんなじゃなかったのに」
そういってぶすっと膨れるその様は小さな子供のようで。
この人って、ポーリーの叔父さんなんだよな? とか思ってしまう。
だってアルカで会った彼女の母は、見た目こそ若かったが頼りになる『大人』に見えた。
叔母のアースに会ったのはもう随分昔になるが、それでも彼女も頼りになった。
なおも愚痴をこぼす彼に対し、ノクスは無難な返事を返すだけ。
そんな彼を助けるように、笑いながらナシラが最後の膳を運んできた。
「人の悪口は口にするものではありませんよ」
「なに。酒に酔ったたわごとだ」
にやりと笑い返し、きょとんとして満面の笑みになる。
「ちい姫~♪」
ぶんぶん手を振りそうな勢いの叔父に、部屋に入ろうとしていたポーラは一瞬足を止め、観念したかのようにゆっくりと近づいていく。
「叔父さんなんだからそんなに警戒しないで欲しいなぁ」
ぴったりとノクスに引っ付くようにして警戒する姪に、情けない顔で叔父は笑う。
「人見知りされちゃったなぁ」
「お小さいころの末姫様のようですね」
「だな。さて全員そろった事だし、夕餉にしよう」
アルクトゥルスのその一言で、夜の和やかな時間が始まった。
脳裏に浮かぶのは、不安そうな眼差しでこちらを見上げる姪の姿。
「子供だな」
ポツリと紡がれた一言はからかうようなものではなく、いとおしむもの。
一番安心できるのか、結局自身の片翼のそばを離れようとしなかった。
年頃の娘としてそれはどうかと正直思いもするが、相手が許婚なら別に構わないだろう。それにその感情は……甘えられる、弱音を言える相手がいるということは、とてもとても大切な事。
アルクトゥルスのそばにあるのは火桶と酒とささやかなつまみ。
それから彼の内情をよく知る妻だけ。
「本当に子供だな」
嬉しいような悲しいようなそんな不思議な感情。
空になった杯に、そっと追加の酒が足される。
あんな無邪気なものを。あんなかわいいものを。
あの子から奪ったのはきっと自分たち。
だけど……あの子はあの子のようにならないと、そう思うのは虫が良すぎるだろうか?
「大丈夫ですよ、あなた」
彼の不安をかき消すようにナシラは笑う。
「後悔するほど苦しい事なら、二度同じ過ちを繰り返さないように務める事は出来ます」
「本当に……ナシラには敵わないな」
簡単の言葉に彼女はふんわりと笑って。
「ですから、息子の事も心配してくださいね?」
「ああ!」
今思い出したといわんばかりの夫の顔に、ナシラは呆れた笑みを浮かべた。
疲れているけれど、眠くは無い。考える事が一杯あって眠れない。
ころりと寝返りを打ってみても結果は同じ。
もうどれだけ時間がたったんだろう?
慣れない場所で慣れない寝具のせいだろうかとポーラは考える。
干草のベッドじゃなくて、綿の入った布団。枕は高く固いもので。
慣れないはずなのに、何故かとても懐かしい。
やっぱり母上が暮らしていたせいかな?
そこから連想して、父はどうしているだろうとか、アースは本当にどうしちゃったんだろうとか。心配の種はいっぱいあって。
嫌な想像を追いやるように首を振る。どうにも眠れそうに無い。
ふうと諦めて目をあけると……真っ暗だった。
姪本人から話が聞けないからと捕まえられて、漸く開放されたのがちょっと前。
慣れない寝具に戸惑いながらも、さて眠ろうかと横になりかけたところで……前触れも無く戸が開いた。
その姿を確認して思わず呻く。
「ポーリー」
何を考えてるんだこの娘はっ こんな、夜に男の部屋に尋ねてくるか普通?!
とりあえず注意しようと口を開きかけたところで気づく。
仄かな蝋燭の明かりに照らされたポーラが、酷く白い顔をしていることに。
「あのね。月がきれいなの」
だけれど紡がれる言葉も声も、普段のものと変わりなく。
故に返って不自然さを際立たせる。
「だからお月見しよう?」
月を見るということは窓……はないから戸を開けることになって、寒い。
風邪をひかせちゃいけないのは確かだけど……
「ちょっとだけだぞ」
「ん。ありがと」
ため息交じりに言った言葉に、心底嬉しそうにポーラは返した。
気持ち厚着して庭に面した障子を開け放つ。
身を刺すような冷たい風が入るがそれにめげず、雨戸を動かし外への道を作る。
確かにそれはきれいな景色だった。
暗い空には数多の星々。位置が悪いのかここからでは見えない月があたりを優しく照らし、雪の白さが少し眩しい。
「これじゃ月見じゃなくて雪見だな」
まあ確かに奇麗だけど。
そう呟くノクスの顔を見ることなく、ポーラは眼前の景色を眺める。
理由はこじつけ。ただ一人でいたくなかった。
黒も白も……何色でも、ただ一色だけの場所はきらい。黒一色なら閉じ込められたあの夜を。白一色なら逃げ落ちたあの夜を思い出すから。
何とかしたいと思っても、結局はこうやって人を頼ってしまう。
駄目だなぁと思う。ノクスの厚意に甘えてばかり。
ふと足音が近づいてくるのが聞こえた。
音の方を眺めると、ナシラが少しびっくりした顔で微笑みかけてきた。
「あら。お邪魔だったかしら?」
悪戯めかしたその言葉にノクスは慌て、ポーラはきょとんとする。
何が邪魔だって言うんだろうとしばし考え、はたと気づいた。
「ああああのっ」
「咎めている訳じゃないのよ。ごめんなさいね。つい可愛くて」
あたふたと真っ赤になる姪を微笑ましく見守ってナシラは一応弁解する。
そしてすぐに真面目な顔を取り繕う。
「ちい姫。お父上が到着されました」
「え」
とくんと心臓が跳ねた。
父上がここにいる。
「お疲れのようなら明日に」
「いえ……」
逢いたいと思う。だってそのためにここに来たんだから。
「着替えてから参ります」
そう応えたポーラに、そうと呟いてナシラは来た道を戻っていく。
「大丈夫か?」
「うん……でも」
気遣ってくれるノクスに淡く微笑んでお願いを口にしようとすると、言わずともわかっていたのか、彼は仕方ないなと困ったように笑っていた。
久方ぶりに見る義兄の姿に、アルクトゥルスは内心だけでため息をついた。
どっと老け込んで見えるのはひげのせいだけだろうか?
颯爽とした騎士姿のかつてと違い、服もぼろぼろ野武士のようなその姿。
強い意志を宿していた瞳は悔恨の色が濃く、その鋭さを増していた。
何が起きたのかなんてアルクトゥルスもよく知らない。
この極寒の地でほとんど世捨て人同然の暮らしを送っているのだ。
交流がまったく無い訳ではないが、あまり活発だと……いずれ時の流れの差に、人に恐怖を与える事は分かっている。
本当に難儀なものだな。
「アーク殿」
襖の向こうから聞こえてきた声に、思考を戻される。
「どうぞ入りなさい」
入室の許可を与えればノクスと、恐る恐るといった表現が相応しいような動作でポーラが入ってくる。その後ろにまだかなり眠そうなユーラ。そして緊張した面持ちのラティオが続く。
「これで全員揃ったか」
アルクトゥルスの確認の声に、ポーラは顔を上げ父の姿を探す。
最初に見つけたのはユリウスの姿。
こちらの視線に気づいたのか、ほんの少しだけ笑みを返してくれた。
彼はあまり変わっていない。
当たり前といえば当たり前だ。別れてから一年経っていないのだから。
そしてそのユリウスの隣にいるのが。
「父上」
漸く見つけた父の変わりように思わず洩れた声。
アルタイルも顔を上げ、仄かに微笑んだ。
「ポーラか。大きくなったな」
話したい事はたくさんある。
だけど……話さなければならないのは別のこと。
「義兄上」
「ええ」
アルクトゥルスに頷いて、アルタイルは遠い目をして呟いた。
「何から話せばいいか」
ぽつぽつと、昔の話を。
そもそもセラータの王は温和な性格をしていた。
最初の子を流行り病で亡くしてから。
それ以来、子供好きだった王は子供を遠ざけるようになった。
それ以来、以前よりも熱心にソール教の教えを学ぶようになった。
「ポーラを見ては、あの子のいい友達になったろうにと言われていたこともあった」
アルタイルの独白を信じられない思いで聞くポーラ。
だってあんなに嫌っていたのに。嫌そうな目をしていたのに。
「弱みに付け込んだか。教会のやりそうな事だな」
突き放すようにいうのは、その教会に所属しているラティオ。
しかし彼の言葉を誰も咎めず、またアルタイルは昔語りをする。
第二妃の子とはいえ、王子が生まれた事ですこしは軟化するかと思われたが結局変わらず、否ますますと人を遠ざけるようになっていった。ソール教の者を除いて。
人より魔力や体力が優れている『ミュステス』を教会が探していると知って彼らを孤児院に隔離してみたり、頻繁にアルカに使者を送ってみたり。
ソール教に心酔するようになって……戦を始めた。民が疲弊する事を知りながら。
何度も何度も諫言した。だがそれは聞き入れられる事は無く。
そこで言葉をとめ、アルタイルはしばし沈黙した。
どんな思いがあったかなんて今更のこと。
事実だけを話せばいい。それは良く分かっている。
この胸に澱むそれを無視して、言わねばならない事実。
「私は……王を斬った」
そう。
何を言いつくろうとそれが事実。それが真実。