【第一話 回顧】 2.仕事とお休み
「ほ? おしごと?」
その日、現は初めて『仕事の部屋』に連れて行かれた。
姉上が仕事をする部屋は、つまりは謁見の間。
女官だけじゃなく男の人――文官たちまでいることが不思議で、ものめずらしそうにきょろきょろと室内を見渡していた。それも、姉が声をかけることで大人しく前を向いたのだけれど。
「ええ。そなたにしか出来ない、大切な仕事です」
「ひめだけ?」
「ええ」
ことりと首が横に傾げられる様子に、姉はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
不思議。
笑っていると、いつもの優しい姉上に見えるのに。
黙っていると……どこかこわい。
「あねうえさまもいっしょ?」
「姉は、ここで務めを果たさねばなりません」
「あにうえは?」
「兄達もまた、別の務めがあります」
「ひめだけ?」
「ええ」
先程とは違い現の顔が曇る。
たった一人、なんてことは絶対に無いだろうけれど、でも兄弟と離れて一人だけというのは、まだ小さい現には酷だ。
姉上は何を考えられてるんだろう。
思わず非難の目を向けるけれど、姉には見えていないのだから意味が無いかもしれない。
現の様子を伺えば、困った顔で俯いたまま、何かを考えているみたいだった。
嫌だって言っていいよ。口には出さずに思う。伝わりはしないことは分かっているけど。
考えがまとまったのか現がゆっくりと顔を上げた。
「ひめがおしごとしたら、あねうえさまうれしい?」
「ええ、もちろん」
言葉を返す姉上は、嬉しそうだけど……なんだか寂しそう。
「じゃあね、ひめ、ちゃんとおしごとする」
はっきり言い切った現を見れば、言葉と裏腹にすごく心細そうな顔で姉を見上げていた。
「だからね、あねうえさま、ひめの……」
「姫の?」
言いにくそうに口ごもった現を促すように、姉上が優しく問い返す。
「おねがい、いっこだけ、きいてくれる?」
「一つといわず、二つでも三つでも聞きますよ?」
「昴!」
簡単にそう答えてしまった姉上に、なんだか怖そうなおじいさんが小声で怒ってる。
姉上が怒られている姿に、現はどんどん泣きそうな顔になっていく。
自分が我侭言ったからって思ってるんだろう。間違いなく。
姉上が気づいてくれるよう視線を送っていたのが効いたのか、ちらりと現を見た姉上はおじいさんを睨んで何か言う。
おじいさんも現の様子に気づいて、気まずそうに目を逸らした。
……泣かせたりなんかしたら、呪ってやるんだから。
姉上ももしかしたら同じ事を思ってたのかもしれない。怖い顔でおじいさんを見た後、現を宥めるように笑いかけた。
「末姫のお願いはどんなこと?」
「あ、あのね」
にっこりと笑った姉にほっとしたのか、現がようやく笑顔になって口を開いた。
「あねうえさま、おしごとちょっとだけおやすみして、ひめとあそんで!」
「ええ。では、明日一日、ずっと姫と遊びましょうね」
「ほんとう?」
「本当ですよ」
姉上の言葉にさっきのおじいさんがまた何か言いたそうに口を開いたけれど、それだけだった。
わたしだって、姉上がとってもとっても忙しいことは分かってる。
前から約束していたのに、駄目になったことだって一回や二回じゃない。
三回連続で約束が駄目になって、現がかんしゃくを起こして塗籠に閉じこもったのは先月のこと。
丸一日立てこもっていた精神力には恐れ入ると言っていたのは誰だったろう?
風の兄上が声をかけても、麦の兄上が声をかけても、食べ物で釣っても反応が無くって、結局姉上が来るまで、誰も天の岩戸を開くことは出来なかった。
あれを繰り返されてはたまらないといったところなんだろう。きっと。
「絵巻物は何がいい? それともお人形あそびがいいかしら」
「えっとねー」
「まぁまぁ姫様」
「今すぐにお決めになられなくとも、明日までゆっくりお考えになられれば?」
くすくすと優しい笑い声に、現は少しだけ眉を寄せるが、また笑顔になって姉上に言う。
「ぜったい、ぜったいあそんでね!」
「ええ。絶対」
優しく笑った後、姉上はそれとなく退室を促した。
「今日は歌を習うのでしょう?
明日、姉上にお話して頂戴ね?」
「はい!」
元気良く返事をして、現は一実たちに連れられて部屋に戻った。
翌日は約束どおり丸一日、姉上にたっぷり遊んでもらって、現の勉強付けの日々が始まった。
「宮中以外では姫のお名前は『福川夢』になります」
「ゆめ?」
「そうです、名前を問われたときには夢とお答えになられてください」
一実が言うと、隣にいた能登がにっこりと笑って問いかける。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「ひめね、すえひめ!」
「違います。夢です」
「ゆめ?」
「夢です」
首を傾げ困ったような顔をした現に、一実は根気良く言い聞かせる。
「お名前は?」
「……ゆめ?」
「はい、良く出来ました」
宮中でなにかをするのだと思っていたわたしは、ここでようやく気づいた。
現は『外』に行かされるのだと。わざわざ名を変えさせたのは、なるだけ危険から遠ざけるため。
現はまだ五歳なのに!
姉上ったら何を考えてらっしゃるのかしら!!
文句はすごく言いたかった。――聞こえるはずはないし、聞かれてもいけないのだけれど。
でも、苛立ちは収まらなくって。もしかしたら姉上が独り言でも言わないかなと思ってお部屋に近づいたのだけれど――
「姉者は何を考えておいでですか!」
聞こえたのは、麦兄上の大きな怒鳴り声。
「現はまだ五歳なんですよ?! それを一人で旅させるなんて!」
「一人で行かせるわけないだろう。供はつける」
「だからって行かせて良い訳ないでしょう兄者!」
あ、風兄上もいるんだ。
そっと覗き込めば、人払いをしているのか、兄上達と姉上だけが室内にいた。
「馬鹿を言うな」
ぴしゃりと言い切ったのは風兄上で、続く言葉は厳しかった。
「選択肢など無い。『行かなければいけない』だ」
「でもっ」
「時世の地は近年豊作続きにもかかわらず、死者が増えたな」
風兄上の言葉に麦兄上が黙る。
「限界が来ていることは分かっているだろう。
それとも、悪戯に民を苦しませるのか?」
「そ……れは……」
「壱の神の依巫は国をめぐらねばならぬ。
神の力なく、我等は生きることが出来ぬ故に」
言ってることの意味なんて理解できないけれど、こっそり話だけは聞いた。
曰く、壱の神の力の強い国内にいれば、わたしたちの寿命は五桁を数えることが出来る。
でも外つ国に出た場合、数年で散ってしまうのだと。
それから、この国での『一年』は外つ国で『百年』に値するのだということも。
正直、このときに実感は無かった。
『桜が一回咲いたら一年』で『百回咲いたら一年』じゃないんだと思ったくらいで。
あ、じゃあ現も五歳じゃなくて五百歳なのかな、なんて考えたりして。
その後も兄上達は何か言っていたけれど、よく覚えていない。
ただ、この後から現の『仕事』の回数は増えて、国中を確かに回るようになった。
偽りの祖父や両親と供に、時には男装をしたりして。
鎮真に会った頃にはすっかりそういう生活に慣れていたけれど。
そして、彼女に――朧に出会ったのは、現が十歳の頃だった。