【第五話 復活】 3.大切な君
少し冷たい風がカーテンを翻していく。
清潔感のある白い部屋で、少女は今だ昏々と眠っていた。
枕もとの椅子に腰掛けたまま、ノクティルーカはじっと彼女を見つめていた。
顔色は悪くない。
呼吸も安定してるし、体温が低すぎるとか高すぎることもない。
けれど解放されたからといって、ポーリーはすぐに目を覚ますことはなかった。
あの後、眠ったままのポーリーを用意されていた寝室に運び、アルクトゥルスやミルザムは後始末があるからを部屋を出て、どういうわけか来ていたセティたちも別室に移り、最後まで残っていたユーラはラティオが連れ去っていった。
ぽつんと取り残されることに異議はない。
目を覚ますまでは、側にいたいと思っていたから。
朝の光に星々が溶けても、目覚めを告げる鳥が鳴いても、ポーリーは目を覚まさなかった。
日が完全に昇りきってからスピカが運んできてくれたおにぎりを一つ口に入れるが、あまり食べる気はしない。水で無理やりに流し込んで、ため息一つ。
呪縛から解かれてめでたしめでたしという訳にはいかないのが世の中と知っていても、辛い。
日はすでに高く上りきっていて、昼といっても差し支えない時間帯。
それでも彼女は目覚めない。
本当に眠っているだけなのだろうか?
起きて、くれないのだろうか。
ふいとそらした視線に、壁の飾り棚が目に入る。
酒瓶がずらっと並んでいるあたり、もともとの持ち主が酒豪だったのだろうか?
ふと思いついて飾り棚に近づく。
ざっと見渡せば、案の定目的のものは見つかった。
瓶を手に取り栓を開けて中を確かめる。
無力透明だが香りの良いそれを少し舐めて一つ頷き、彼は行動を開始した。
最初に感じたのはなんだったろう。
ぼぅっとしていた意識が少しましになったような。
そう……名前を呼ばれた気がした。
その呼び方をする人は少なくて、最初に思いつくのは叔母だった。
最後に会った姿を思い出すと胸が詰まる。
否を言わないのを知っていて、無茶を頼んだ。
何度謝っても足りないくらいだけど、謝る機会はきっともう……ない。
けれど、耳を打つ声は叔母とはぜんぜん違う低い声。
優しいながらも、どこか必死な響き。
何度か聞いた声だからこそ、都合のいい夢を見ているんだと思った。
だって、『彼』に逢えるなんて、どれだけ自分勝手な夢だろう。
それでも何とか開いた目に映るのは、思い描いていた『彼』の姿。
「っ」
泣き出しそうになって必死にこらえる。
夢でもいい。動かない手を必死に伸ばして、ポーリーは彼に抱きついた。
飲み込んだのを確認してから、ノクティルーカは顔を離した。
とりあえず左手に持ったままの蒸留酒をサイドボードに置いて、反応を窺う。
「ポーリー?」
反応なし。
ぺちぺちと軽く頬を叩いてみるも、結果変わらず。
もう一口飲ませてみるかと考えた頃に、小さくまつげが震えた。
「ポーリー?」
再度の呼びかけに、ゆるゆると紫水晶の瞳が開く。
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、ぼんやりとした目がノクティルーカを捕らえる。
驚いたように瞳が見開かれて、くしゃりと歪む。
おずおずとノクティルーカの首に回される腕に応える様に、彼もポーリーを抱きしめた。
どれだけ経ったろうか。出来るなら醒めて欲しくない夢だけど。
離れてしまったら醒めてしまう気がして、必死にしがみついていたポーリーの耳に、違う言葉が入ってきた。
「おはよう」
嬉しそうな声音。
――あれ?
ささやかれた言葉に違和感を感じた。
そういえば、なぜか口の中が苦い――アルコールの味がするような?
気がそれたせいだろうか。腕の力が弱まり、ぬくもりが少し離れる。
視線を少し上げれば、どうしたとでも聞きそうなノクティルーカの顔。
それだけなら普通に『なんでもない』とでも対応できそうなものだったが、如何せん距離が近すぎた。
髪が触れそうなほど近い位置にある彼の顔。
ぴしりと固まってしまったポーリーに、はてとノクティルーカは首を傾げかけ、納得する。
確かに、目を覚ましたときにこんな風に覗き込まれていたら、大抵の人間は驚くだろう。
さっさと退こうと彼が行動に移すより早く、彼女が動いた。
急激に近づく顔と顔。
鈍くも大きい音を立てて激突し、倒れそうになるのを左腕一本で何とか耐えながら犯人をぎっと睨むノクティルーカ。
「……頭突きが来るとは思わなかったぞ、おい」
「だ……だってルカ近すぎるんだもん」
互いに額を押さえつつ、あまりの痛みに声が震える。
とはいえ、ノクティルーカは呼ばれた名前にほっとした。
以前に二度ほど、ポーリーは幼馴染の自分を綺麗さっぱり忘れていたという前科がある。今度も忘れられていたら、さすがに立ち直れなかったかもしれない。
気が抜けた、とでも言うのだろうか。
急に体が重くなって、さらに力まで抜けていくような感覚に、ノクティルーカは自身が思うよりもゆったりとした動作で彼女から離れ、床にそのまま座り込んだ。
起きたら話したいことがあったし、聞きたいこともたくさんあった。
けれど、体力の限界を超えてしまったらしい。
「ルカ?」
「……疲れた」
ぽすりと頭をベッドに――ポーリーの顔が見えるように埋めて、沈んでいく意識をつなぎとめて何とか口を開く。
「悪い……少し、寝る」
本当にそれだけ言うのが精一杯で、意識はすぐに闇に溶けた。
言葉どおりだったのだろう。
ほとんど間を置かず聞こえてきた寝息に、ポーリーはくすりと笑みを浮かべた。
疲れてたんだなぁ。
それなのに、頭突きしちゃって悪かったな、とも。
いつもいつも思うのだ。
もう少し可愛らしい女の子のような反応ができるようになればいいのに、と。
そこまで考えて、痛みの残る額に手をやる。
夢じゃ……ない?
想像に、まさか、でもと考える。
あの日あの時、彼らを助けるために自分は禁術を使った。
代償は、術者自らの命で済めば良い方と言われるようなものを。
だから……生きているはずがない、のに。
どくんどくんと脈打つ心臓。ぶつけたせいで熱を持つ額。
手を伸ばしてノクティルーカの頬にそっと触れる。
目の下の隈に気づいて、本当に疲れてるんだと思い……涙が滲んだ。
おはようと、先程かけられた言葉が今になって身に沁みる。
彼から見て『眠っている』ような状況だったんだろう。
こんなに疲れさせたのはきっと、自分のせいだ。
けれど――どうしようもなく嬉しかった。
そうまでして、助けてくれたことが。助けようとしてくれたことが。
だから。
「ありがとう」
聞こえないだろうけれど。後からまた言うけれど。
それでも今言いたくて、伝えたくて。ポーリーはそっと呟いた。