【第五話 復活】 2.この手に取り戻す
目が覚めたのは、窓から差し込む光が眩しかったせいだった。
身じろぎして目を開ければ、真っ白なシーツが見えた。
「ん?」
一瞬記憶が前後して、ああ眠ったんだと気がついた。起き上がってみれば鎧を脱いだだけの姿で、よっほど疲れていたんだと改めて気づく。
置いてあった水差しの水で喉を潤そうと手をかけると、大きめなノックが響いた。
「ノクティルーカ、起きてるかー?」
「ああ」
返事をして扉を開けに行こうと立ち上がった瞬間、あっけなく戸が開く。
「おお。良く寝たな。顔色がいい」
うむうむと頷くミルザムの姿に、ノクティルーカは渋い顔をした。
いくら疲れてるからって、鍵もかけずに寝たのかと自分の不注意を悔やむ。
とはいえ、ミルザムたちは鍵をかける風習といったものがあまりないため、特に気にしていないのだが。むしろ、鍵がかかっている方がショックを受けるかもしれない。
「起きているならちょうどいい。さっさと湯浴みをして来い」
その後に朝食だと続けるミルザムに、ノクティルーカはただ視線だけを向ける。
長い付き合いだ。言いたいことくらいは分かるだろう。
しかし彼は苦笑いをしただけでさっさと背を向けてしまった。
不満は山ほどあるが、仕方なくノクティルーカは後を追う。
あまり見慣れぬ城内は相変わらず白い石壁だけの殺風景なものだった。
所々に花が生けられているのを見て少しほっとするほどに、この城はなんというか、生活感がない。
「まず湯浴みな。それから肉抜きの朝食。
しばらくしたら沐浴をしてもらうことになる」
振り向かぬまま言い放つミルザムに意識を戻されて、ノクティルーカは不満げに問う。
「何でそんな」
「手順は重要だぞ? なにせ、お前は依巫なんだから」
「よりまし?」
何がどうマシなんだろうと首を傾げるノクティルーカ。
勘違いが面白かったのだろう、肩越しに振り返るミルザムは笑いをこらえているようだった。
「分かりやすく言えば、神を迎え入れる器になってもらうということだ」
「ふぅん?」
意味が良く分からない。
とりあえず返事をしてはみたものの、首を傾げるノクティルーカ。
しかし、それがポーリーを助けるために必要だというのであれば否はない。
とりあえずは温かい風呂で汚れをさっぱりと洗い流すことになった。
案内されたのは、木造のちいさな小屋だった。
温泉をひいているので、いつでも温かい風呂に入れるぞと少し自慢げに言うミルザムは少し子供じみていた。
言われたとおりに先に身体を洗い、木製の深い湯船に身体を沈めると、なんとも言えず気持ちいい。十分に温まったところで出ると、着替えに用意されていたのは真っ白な服だった。
以前にも借りたことがあるから着方は知っている。多分。着物の袖を通したところで少し固まり、右が先だったよなと呟きつつ襟を合わせる。
それから帯を締めて着衣を確認する。
湯殿を出ると、ノクティルーカと同じく白装束の男性がいた。
深い海の色の髪が白に映える。
「久しぶりだな。元気そうで良かった」
「お、お久しぶりです」
朗らかな挨拶に記憶を急いで掻っ攫い、かつて教わったように丁寧に頭を下げる。そんな彼の様子にアルクトゥルスはくすりと笑って、穏やかに話しかけた。
「色々窮屈な思いをするだろうが、依巫役を頼むよ」
「はい」
はっきり答えると満足したように彼は頷いて、ノクティルーカが今日一日篭らなければならないという小屋に連れて行ってくれた。
案内する間に、儀式は夜が更けてから始まることや、他人との接触は出来る限り避けなければいけないことなどの注意点を詳しく話すアルクトゥルス。
少しでも聞き逃すことがないように、ノクティルーカも真剣に話を聞く。
今日、すべてが終わり、始まる。だからこそ、逸る気持ちを抑えなければ。
明かりは蝋燭が一本だけという薄暗い部屋にただ一人置き去りにされて。
ただただ彼女を助けることだけを考えて、ノクティルーカは『その時』が来るのを待った。
ちりちりと明かりが灯る音。
それから、遠く聞こえる虫の音。
しんと静まった部屋で、ノクティルーカは目を閉じて座していた。
呼吸はゆっくりと。少しずつ吸って、数秒留めて、また同じ時間をかけて吐き出す。
時間の感覚があいまいになってきた頃、扉の開く音がした。
目を開けると部屋に一筋の光が射しているのに気づく。
光源は迎えに来た人物の持つ提灯と、はるかに明るい天空の月。
アルクトゥルスは服装もあって夜に浮かび上がって見えた。
――次に迎えに来たときは、一切言葉を発さないこと――
事前に受けた注意を思い出し、頷き一つを返して立ち上がる。
くるりと背を向けたアルクトゥルスの後を追いながら思う。
我ながら、妙に落ち着いているな。
昨日は本当に焦っていたのに。
心変わりに不思議なものを感じながらも、足だけは変わらず動かし進んだ。
ノクティルーカは気づかなかった。
とはいえ、誰も気づくことはなかったし、本人に気づけというほうが無理だということも――すべては、後に分かること。
後にしか、分からないこと。
彼女の眠る部屋には先客が何人もいた。
ソレイユやグラーティアはもちろん、ラティオやスピカ。
どうして呼ばれたのかセレスタイトたちまでいる。
奇妙には思ったものの、そんなことに気をとられるような状況ではない。
彼らに視線をやったのはほんの僅かの間だけ。
意識はすぐにポーリーへと向かう。
石に閉ざされた彼女の前には祭壇が作られており、鏡が飾られていた。
どこかで見たような鏡だと思いながらも、事前に言われていたように祭壇の前から数歩下がったところにおとなしく座る。
短めの棒に白い紙がついたものを両手で持って、アルクトゥルスが祭壇の前の立つ。聞きなれない言葉が、やはり聞きなれないメロディを持って紡がれる。
ただ座っていれば良いと言われていたノクティルーカは、呪文のようなそれに耳を傾けつつポーリーを見つめていた。
助ける。助けたい。そう思っているのは事実で。
じっと見つめていても、何の反応も示さないことが寂しくて。
視界がぐらりと歪んだのは突然だった。
呻きを殺して瞬きをするが、視界は狭まっていくばかり。意識を保たせようときつく拳を握ったところで、ようやく左手が熱を持っていることに気づく。
なにが。
起こっているのだろうと思った瞬間、自分の口が意図せず言葉を漏らした。
「『珍しく丁重に呼び出したものだな』」
その呼びかけと同時にアルクトゥルスの呪文がやむ。
「『久しいな。麦よ』」
呼びかけにゆるりと振り返り、アルクトゥルスはノクティルーカに向かって丁寧に頭を垂れた。
自分の意思にかかわらず紡がれる言葉と動く身体。
薄絹一枚を通したように不明瞭な視界。
突然の出来事にノクティルーカは混乱するが、それで何かが変わることはない。
ノクティルーカがすべきことは、神をその身に降ろす役目だと言われていた。
だから、自らすることは何もないとも。
言われたことに納得はしないもののどうにも出来ず、ノクティルーカはただ事態を把握することだけに専念しようと諦めた。
『うむ。良い心がけだ』
ほぼ同時に聞こえた――感じた――言葉に意識が一瞬凍る。
ノクティルーカの反応が面白かったのか、『神』は空気だけで笑い立ち上がった。
「『元来、我は呼び出しを好まぬが、あれらからの頼みでもある。聞き入れよう』」
鷹揚に告げて大股でポーリーに近づき、水晶へと無造作に触れた。
触れたのは左手。そこに宿るは『奇跡』。
強い熱を持ったと思った瞬間に、水晶がひび割れた。
『後は勝手にしろ』
頭の中に声が響くとほぼ同時に視界と体の自由が戻る。
割れて周囲に散らばる水晶片。
ぐらりと前へ――ノクティルーカに向かって崩れる彼女の体。
『ただし、必ず顔を見せに来い』
笑いを込めて響いた声。
身に生じていた違和感がすべて抜け去るときに背中を押されて、受け止めた彼女ごと床に転がるノクティルーカ。
「壱の神ッ」
姪っ子と甥(予定)の有様にアルクトゥルスが抗議を上げるが、気まぐれな『神』は笑い声とともにどこかへと消えていった。
無論、ノクティルーカにその声を聞く余裕などなかったのだが。
地面に転がる際に、気力だけで身体を動かしポーリーを下敷きにすることは免れたが、代わりに肩が犠牲になった。
じんじんとあちこち痛む身体を無視してとりあえず体を起こして座る彼に、ユーラやソレイユが走り寄ってきた。
「ポーラッ」
「兄上だいじょーぶですかー?」
彼らには構わず、ノクティルーカはいまだ身じろぎ一つしないポーリーを抱えなおし、呼びかける。
「ポーリー?」
しかし彼女は呼びかけに答えることはない。
左腕でポーリーの背中を支え、息を確かめるために右手を彼女の口元へと近づける。どくどくとうるさい自身の心臓のせいで分かりにくいが、息は……ある。
それでもと首筋に手を伸ばして脈をはかる。
「生きてる」
ぽつっと漏らした一言に、周りがすごく騒ぎ出したけれど。
ユーラが何か喚いていることも分かっていた(内容も大体想像つく)けれど。もう何も考えることも出来なくて、ノクティルーカは想い続けた彼女を抱きしめた。