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ナビガトリア

【第三話 桜の国】 1.桜吹雪の中で

 我ながら結構ひねていたと思う子供時代。
 そんな自分でも初めて見たとき素直に感動した。
 空から舞い降りて来る淡い紅の物体。
 それらは話に聞いていたとおり儚いものだった。
「ゆき……」
「桜です」
 思わず呟くと悲しそうな声で訂正された。
 そのくらい知っていてほしかった。そういう口ぶりだった。
「さくら……ですか?」
 訂正の言葉を入れた相手を見やりその名を反芻する。
「花ですよ……」
 彼女の視線は遠い。
 それも聞いた名だった。しかし知っているのは名前のみ。
 きょとんとしたまま再び花を見上げるアポロニウスを眺めて彼女はこっそりため息をつく。
 アポロニウスの生まれ故郷は四季がはっきりしない場所だということは知っていたが、手にとれば花びらだということに気づいてもよさそうなものだが。
 『雪』を知らないにしても、もう少し偏らない教え方をしてもいいでしょうに……
 かつての自分の愛弟子を思いため息をつく。
 たまにしか見えないものを見せるというのは教育の上で良いことだとは思う。
 書物からしか学べぬよりは体験できるのならしたほうがいいと思う。
 そのための協力なら惜しまない。
 それらはかつて自分が言った言葉。
 そのとおりにさせているのだろうと思う。
 自分の息子にあらゆる事を教えたい。まして本人が望むのなら。
 親のその願いもまぁ分からなくは無い。
 無いが……
 うちは託児所じゃあないのですけどね。
 こうちょくちょく預けられてもこまるというか……
 ラティオやユーラに会えるのはうれしいが、ここに子供を預けて一体どこにいっているのやら?
『仮弟子入りだから♪ 』
 冗談交じりに――ただし目は真剣そのもの――で言われた言葉を思い出す。
「わぁー」
 感嘆の声を上げる弟子の隣に立って、彼女も空を……桜の大木を見上げる。
 満開に咲いていた花が風が吹くたびはらはらと落ちる。
 それは何度見ても儚くて華やかで清楚で艶やかで……幻のような美しさ。
 よく見てみれば枝のあちこちに萌黄色の芽の姿。
「もう後は散るだけですね」
 しみじみと呟く。桜が散るさまは何度見てもどこか物悲しさを感じさせる。
 すでに日は落ち夜の衣が空を覆い始めた。
 澄んだ淡い紫と藍色とが柔らかな桜の色をより映えさせる。
 雲ひとつ無い空に、一番星と下弦の弓張り月。そして桜の花びら。
「きれいですね」
「そうですね」
「でも……なんか怖いです」
「……そうですね」
 意外な返答があってアポロニウスは思わず彼女を振り返る。
 この頃はまだそんなに背は変わらなかった。もっとも正式に弟子入りした時点ですでに彼のほうが背が高かったのだけれど。
「師匠もそう思うんですか?」
「思いますよ」
 美しい。でもそれゆえに感じる恐怖。
 当たり前のように頷かれてアポロニウスは少し考える。
「なら、何でこんなに植えてるんです?」
 ここは昔……森だったけれど、戦争で焼かれてしまった。
 だから木を植えた。願いをこめて。
 みんなで思い出になるように。アポロニウスの両親とその友たちとで。
 そう聞かされていた。
 わざわざ怖いと――たまにでも――思う木を植えたのだろうか?
 質問に、師匠は微笑んで。
 瞳だけはなぜかすごく悲しそうに細められて。
「もうこの樹くらいしか故郷のものって無いんですよね」
 そう呟いた。
 師匠に故郷は無い。
 文字通り無くなってしまったという。跡形も無く。
 ここが第二の故郷だとも誇らし気に、それでいて寂しそうに言っていた事もある。
 思い出に浸りたいときもありますから……
 悲しみを感じさせない声で呟いて、それにと付け加える。
「理由抜きにして綺麗ですしね。
 ここまで増やすのも結構大変だったんですよ」
「ふぅん」
 彼女がどんな道を歩んできたのか知らない。推し量りようも無い。
 例え見た目がどんなであろうとも彼女は『大人』で自分は『子供』なのだから。
「来年はそろってお花見したいですね」
「おはなみ、ですか」
 花ならすでに見ているのに?
「ただ桜の下でごはん食べたりするだけなんですけどね」
 イベントみたいなものですよ。
 それは心のそこから楽しみにしている口調。アポロニウスは少しほっとする。
 母親とは見た目も性格も正反対だから、正直どう対応していいのか分からない事が多すぎる。
『姉』とはこういう存在なのか? とも思ったりもする。
 でもそれもしっくりこない。やはり彼女はもう一人の母親、なのだろう。
 父から母みたいだと言わしめる人だから、彼女にとってはアポロニウスは『孫』みたいなものかもしれない。
「そろそろ戻りましょうか。まだ冷えますし」
 晩御飯はどうしましょうかねぇ。
 そう呟いて歩いていく背に声をかける。
「師匠」
 振り向く。その動作にあわせて白銀の髪が揺れる。
「どうして師匠は桜が怖いんです?」
 なんとなくした質問。
 この人はどんな些細な質問にでも答えてくれるから。
 なんとなくした、それだけのもの。
 視線を合わせるその顔には珍しく何の感情も浮かんではいない。
 闇色のマントに映える陶器のように白い肌と雪の髪。
 夜が深まればその分彼女自身が光を放っているかのように闇に淡く浮かぶ。
 その姿は妙に神々しい。
 きれいで、だけどこわくて。
 一陣の風。花が散る。先ほどまでとは比べ物にならないくらいの勢いで。
 舞う花に一瞬互いの姿すら隠れる。
「散っていくさまが」
 風にまぎれて聞こえる師匠の声。
 桜吹雪の中、こちらを見つめるその瞳はどこまでも遠い……冷たい色。
「……いのちに見えたから、ですよ」
 そのまま、師匠が桜に呑まれるかと思った。

 今なら分かる。
 冷たい石に封じられて。時間の流れを否応無く変えられてからは。
 みんな先に老いていく。
 みんな先に死んでいく。
 みんな私を置いていく。
 貴女はそれが悲しかったんだ。それが怖かったんだと今なら言える。
 今まで出会った人たちは……自分の声を聞くことが出来たもの達はすべて先に行ってしまった。

 そういえば。ふと思う。
 以前はこんなに昔のことを思い出すことが出来ただろうか?
 こんなにはっきりと物を考えることが出来ただろうか?
 否。
 ぼんやりとした記憶。ぼんやりとした思考。
 封じられてからの記憶は何故かすべてあやふやなもの。
 こんなにはっきりとした思考を保っていられるのはすべて彼女に会ってから。
 コスモスに出会ってから。
 何か関係があるのだろうか?
 すべては進んでみなければ分からないけれど。