lycoris-radiata【プロローグ】
沈黙したままの電話を前に、女性は難しい顔をして座っていた。
黒檀のテーブルには無数の書類と古めかしい電話だけ。
ころころとペンが転がる様がなんだか妙に悲しくなる。
連絡が来ない。もう何日も連絡が無い。
あれほど定期連絡を入れろと念を押していたにも拘らず。
自身の部下のうちでは能力があるから任せたが、やはり気分屋な相手に回す仕事ではなかったか。
軽いノックの音に顔を上げれば、渋い顔の同僚の姿。
開かれたままの扉をくぐって問いかけてくる。
「いい加減『あれ』から連絡はまだないのか?」
「残念ながら、まーったく」
「大した切り札だな」
あえて大仰に肩をすくめてみせれば、案の定眉間のしわが深くなる。
彼は自分より若いというのに、これではますます老いて見える。
いずれそのあたりもそれとなく言ってみようと思いつつ苦笑した。
「準備に準備を重ねても、大元が『ああ』じゃねぇ」
大任に逃げ腰になっている訳ではないだろう。
思っていた成果が得られなかったか……何かに巻き込まれたか。
とはいえ、こちらで抱えている懸案をどうにかするには帰ってきてもらわなければいけないのだが。
今からでも代役が見つかるならいいが、生憎信頼できる相手で能力も高いとなると。
「代わりになるような子……いる?」
「人数はぎりぎりだ。そっちで準備しろ」
予想通りの答え。
さてどうしたものか。今から他支部に応援要請をするにしても……
そこまで考えたところで、一人脳裏に浮かぶが即座に却下する。
頼りになるが借りは作りたくない相手だ。
別の相手をと考え始めたところで、けたたましいベル音が響く。
「ようやく連絡来たか?」
「だといいけど」
軽く答えて受話器をとる。
と、途端に聞きなれた――聞きたくなかった声が耳に飛び込んできた。
噂をすれば何とやら、か?
口に出してないのに、心で思っただけなのにと女性は引きつった声で返答をする。
声と表情で相手を悟ったらしい同僚は、やれやれといった表情で視線を外す。
彼女が電話相手に『お願い』すれば、すぐにでも助っ人を手配してくれるだろうに。
ただし、大量の愛ある嫌味つきで。だからこそ頼みたくないことは分かるが。
突然、彼女の声音が変わった。白々しい口調から一転真剣なものに。何度も何度も確認を繰り返して、それから厳かに頷く様子を見て、何かあったと確信する。
こちらのことだけでも手一杯だというのに、一体何が起こったというのだ。受話器を置くのを待ちきれず、問いかけようとする同僚に、彼女はにっこりと笑ってみせた。
「朗・報」
「なに?」
楽しくて楽しくて仕方ないといった調子で彼女はペンを手にとってくるくる回す。
「まあねぇ。なんというか、本当にすごいわねぇ」
「もったいぶるな。悪いことではないんだな?」
「大事だけど、悪いことじゃないわよ?」
「大事?」
むふふといたずらっぽく笑って、軽やかに椅子から立ち上がる彼女。
そのままゆっくり右側の窓へと歩み寄る。
窓越しに見える空は黄昏。
後数回これを繰り返せば、幕は自然に上がるだろう。本来、こちらで操作できるものではない。
だが。
ガラスに映るのは不敵に笑う自身の姿。
茜空に瞬く一番星をてのひらに収めて振り返る。
「我らの『導星』がこっちにむかってるって」
「それは……心強いな」
一瞬硬直した後に、彼はようやっとその言葉を紡ぐ。
援軍だ。とてつもなく強力な援軍には違いない。
むしろ、それ以上を望むことが難しいくらいの助っ人。
困惑を隠そうともしない同僚に笑みを浮かべ、彼女は窓を大きく開け放つ。
「じゃあ始めましょうか。主役が出てくる前に舞台を整えておかないとね」
開幕を告げるように大きく翻るカーテン。
ぱらぱらと書類が煽られ、静かに床に重なっていく。その、年月を告げるかのように。