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終の朝 夕べの兆し

Vol.4「adulescentia」 3.王女と公女

 どくんどくんと脈打つ心臓。
 そうでしたのと囁くように呟いて、怪しまれないようにクッキーを口に入れる。
 動揺を悟られないように、心を落ち着かせるためにもゆっくりと咀嚼した。
「もう、だから、御挨拶されなくてよろしいの? あなたは仮にも」
「公爵家の人間なのだから、でしょう?」
 言われなれた言葉を返して、もう一枚クッキーを手にする。
「分かっています。王家に失礼なことを言わないように、でもご挨拶はしっかりとします」
 聞き分けのない子供のような返答に、けれどエレオノアは笑みを浮かべた。
 人懐こいその笑顔。お人よしと言われることが多い彼女は、誰彼となく助けの手を差し出す。見返りを求めることなく人助けをするがゆえに、時にいい様に扱われていることだって知ってる。
 だからこそ、彼女が本気でトラブルになりかねないクレメンティアの言動を心配してくれていることは分かるから、無下にはできない。
 結局、その話が本題だったのだろう。残りは全部食べていいからと言い残して、エレオノアは席を立ち、忙しそうに去っていった。
 後姿を見送って、何とはなしに息を吐く。
 憂鬱だ。もちろん、挨拶をしに行かねばならないことが。
 それも相手が、リウィア王女だということが。
 『ティーナ』
 幻聴が聞こえる。
 高く自信に満ちた子供の声。誇り高く、時に傲慢さを滲ませる声音。
 『ティーナ』
 幻聴が聞こえた。
 高く柔らかな子供の声。親しみと怯えの混ざった複雑な声音。
 ゆるくウェイブがかかった、金にも近い淡い茶色の髪。深みのある青い瞳。生まれながら病弱で、あまり人前に出ることのない深窓の姫君。
 クレメンティアのように『それ』に気づいている者は少ないだろう。
 憂鬱だ。
 だが、挨拶はしなければいけない。もちろんクレメンティアの方から出向かなければいけない。
 とっても憂鬱。
 だけど……相手もきっと、挨拶に来たのがクレメンティアだと知ったなら、そう思うのだろう。
 深く深く息を吐いて彼女は立ち上がる。
 嫌なものや、ややこしいことは早く済ませるに限る。挨拶が遅くなれば家族まで悪く言われてしまう。それが何よりも嫌だから。

 ちょっとそのあたりにいた人に話しかければ、リウィア姫の居所はすぐに知れた。
 有名人というのも大変なのねと他人事のようにクレメンティアは思う。
 すたすたと歩いていく彼女に、ちらちらと投げかけられる視線。
 わずらわしいと思うが、兄姉たちはもっと見られていたのに気にしていないようだった。養母に似た次兄と姉はとっても美人だから、とにかく人目を集めたものだ。地元の人間はとっくに慣れてしまっていたのだろうけれど、首都に来た時にはそれはそれはすごかった。
 姉さんみたいになれればいいのに、とはよく思う。
 いつでも自信いっぱいで、真っ直ぐに自らが進む道を見続ける強さを持っている人。
 そんなことを考える間にも、上流階級専用のサロン――王女がいると聞いた場所――にたどり着いていた。
「まあクレメンティア公女」
 世話役だろうメイドが慌てたような声を上げる。
 確かにびっくりするだろう。クレメンティアがここに来たことなど、これでようやく片手が埋まるかどうか位だ。
 二、三問いかけたところ、幸いにも大貴族――特に他の公爵家――などは来ていないようで、さっそく取次ぎを願う。
 待っている時間は、はたから見れば短かったろう。だけど、クレメンティアにしてみればとてもとても長く感じた。怒られるのを待つ時間とよく似た息苦しさに、息をつきたいのをこらえて飲み込む。
「クレメンティア公女」
 名を呼ばれて、了承が出たと悟る。
 すぅと息を吸って、勇気を出して一歩踏み出した。

 久々に入ったサロンは、やはり豪奢なものだった。
 家具は淡いクリーム色でまとめられ、カーテンにはこれでもかというほどに精密な刺繍が施され、さらにレースが飾ってある。
「クレメンティア・スノーベル参りました。王女殿下におかれましてはご機嫌麗しう」
「お久しぶりねクレメンティア」
 にこやかな様子は以前と変わらない。
 髪は結い上げられ、ドレスと同じ柔らかな色のリボンでまとめられている。縁取りのレースと同じくらいに白い肌に、やはり体調がよろしくないのではと思うが、クレメンティアはそのまま言葉を紡いだ。
「ご尊顔を拝し奉り」
「もう。そのように畏まらないで。あなたもわたくしも、まだデビュタント前なのだから堅苦しくしないで頂戴」
「いいえ。上に立つ者こそ率先して礼儀を尽くさねば、示しがつきません」
「本当、そういうところは父君によく似てらっしゃるわ」
 四角四面な答えにころころと笑われてしまうけれど、少し嬉しい。養父に似ていると言われることは。
 とりあえず挨拶はすませたから、あとはどうやってこの場を辞そうかと考えるクレメンティアに、探るような視線を向けるリウィア。
 早く帰ろうと思っていることがバレてしまったかと狼狽える彼女に、王女はどこかおずおずと問いかける。
「素敵な香りね?」
 問われて首をかしげかけ、はたと気づく。
「兄に頂いた香水です。そんなに香りがきついでしょうか?」
 柔らかな花の香りの香水は、入学にあたって長兄がプレゼントしてくれたもの。
 まだデビュタントを迎えていないのに早いのではと自分でも思うが、やっぱり憧れがあってこうして時々つけていた。
「いいえ。良い香り……ティーナに似合っているわ」
「ありがとうございます」
 少し緊張したように呼ばれた愛称。クレメンティアは笑顔――であることを願う――を返す。
 それから二言三言話して、御前をなんとか辞することができた。
 背後でドアが閉じられる音を聞いて、長い廊下を通り過ぎ、教室まであと少しというところで、クレメンティアはようやく詰めていた息を吐いた。
 どうにも緊張する。
 あの方はいったい何がしたいのかしら?
 クレメンティアが彼女を苦手としているように、王女も同じように思っているのだろう。
 互いに相手の出方を伺うような反応をしているのだから、疲れるのも仕方がない。
 王女の立場からすれば、クレメンティアとの接触など最低限に絞ることは簡単だろうに、なぜこうも構ってくるのだろう?
 元々、スノーベルは領地にこもりがちで、王家に邪険にされているから領地が辺境なのだと陰口をたたかれていたりする。
 もっとも、今の王様がいろいろとおじい様に叱られているから、わずらわしく思われているのでしょうけども。
 いつも田舎に引っ込んでいる祖父――前のスノーベル公爵が王都に来るときには、よほど王様が怒らせることをしたのだと言われるくらいには。
 『ティーナ』
 耳に残る声。
 不安定に揺らぐ、かすかに怯えの滲んだ声は、クレメンティアがスノーベルになる少し前に聞いたもの。
 それよりはるか以前には、決して紡がれることなどなかった音色。
 もしかしなくてもきっと、それが、王女がクレメンティアに構う理由なのだろう。