Vol.1「sensus impotentia」 1.失った者たち
時間は大体正午ごろ。場所は表通りの宿を兼ねた地元民も訪れる食事店ノワゼット。
常日頃なら人気の高いテラス席だが、ここ数日ほどは閑散としている。
その理由が、手持ち無沙汰にテラスでのんびりとしている男性だ。
年のころは二十手前。黒いつんつんした髪に端正といって良い面差しだが、目つきの悪さが美点を相殺しきってしまっている。おまけに帯剣しており黒のローブで上下を固めていては、まっとうな人間は近づこうと思わないだろう。
待ち人でもいるのか、時折通りを眺める目はひどく斜め。たまたま目が合った相手がぎょっとして慌てたように視線をそらし、時折職務質問される程度には。
これだけ怪しい相手だが、特に問題を起こすわけでもなく逆に羽振りがいいくらいなので店主は何も言えないという訳だ。
そして、今日もまた待ち人を見つけたらしい。
黒の双眸がにやりと笑い、弧を描いた口から良く通るバリトンが響く。
「オネーサン、一緒に茶でもどう?」
ぽんと軽くテーブルを叩いて示すのは向かいの席。
声をかけられた側は不快そうに相手を見返し、軽くため息をついて言った。
「おごりなら喜んで」
もう慣れたやり取りだ。
どうぞとばかりに立ち上がり椅子を引けば、相手はすんなりとそこに腰を下ろす。
ぱさりとフードを脱ぎ去ればその相貌が露になる。
年は男よりいくつか上だろう。そこそこ整った容姿の女性。
一際目立つのは額を飾る三つの石。どういう仕組みか、額にそのまま埋め込まれているように見える。
「相変わらずしつこいな」
まっすぐな黒味がかった髪は肩で切りそろえられており、鋭い印象を相手に抱かせる。
言葉と同様にきつい視線が男をねめつけるが、相手は意に介した風もなく肩をすくめて返した。
「こちらも仕事なもので」
女の探るような視線に、男はニヤニヤ笑いで返すだけ。
口数少ないアルトヴォイスと迫力あるバリトンの応酬に、たまたま声の聞こえる位置に座ってしまったほかの客たちがごそごそと移動を開始する。
それほどに周囲の気温は下がり、近寄りがたい。
「ごご、ご注文の品お持ちしましたっ!」
声と同時に料理がテーブルに並べられ、あっという間に去っていくウェイトレス。よほど近づきたくなかったのだろう。
しかし、料理が届くことで空気は一変する。
おもむろにパンを手に取り、もくもくと咀嚼を始める女性からはすでに険が取れており、男性も呆れたように頬杖をついてため息をついた。
「相変わらず食うのに困ってんのか」
しみじみとした声からは先ほどの冷気はすっかり消えており、敬語も完全に抜け切ったぞんざいさ。
だというのに返事はない。食事に夢中のようだ。
「ンなに困ってんなら前の職場に復帰したらどうだ?
食うには困らねぇはずだろ?」
「食事時間が決まっているから嫌だ」
きっぱりとこれ以上ない位の断言に、男はしばし沈黙する。
「……それが退職理由って訳ねぇよな?」
「それもある」
「あるのか。まさか、他からの仕官の話断ってんのも」
「一番譲れない点だな」
「……さいですか」
はあと深く息をつく。ついでに力も抜けて、そのまま椅子にぐったりともたれる。
たった、たったこれだけを聞き出すのに数ヶ月を使ってしまったという無力感から。
返事はしつつも食事をやめないこの女性の名はルビーサファイア。
偽名ではない。これでも実名だ。とはいえ、本名ではないのだろう。
物心がつくかつかないかの頃に捨てられた娘。
稀有な能力を持っていたため、魔導士に育てられた娘。
『ルビーサファイア』は、育て親の魔導士がつけた名前だというのは有名な話。
魔導士の始祖とも言われるスノーベルが設立した【魔法協会】とそこから派生した【塔】。
派生したと言っても、歴史が百を数えればもうほぼ別組織と言ってかまわず、魔法の系統もすっかり変わってしまった。
【塔】の魔導士の特徴は、体に魔封石を埋め込んでいる事。
彼女の場合はご丁寧にも目立つように額に三つ並んでいる。
中央に赤い石、両脇を固めるのは青い石。火と水、二つの属性を持つ証。
だからこその『ルビーサファイア』。
まあ、なんてーか、微妙な気持ちになる話じゃああるな。
しかし目の前で食事に勤しむ様子は、とてもじゃないが「硬玉の魔女」と呼ばれ畏怖される存在とは思えない。
「うちは一応、食事時間自由だぜ? 宮仕えほど固くねぇし」
「だが、私は【塔】の魔導士だ」
「こっちは気にしちゃいねぇよ。【協会】は魔導士なら諸手を上げて歓迎だ。
まして呼び声高いあんたならな」
「……だろうな」
心当たりはあるのだろう。いや、なんども言われてきたのだろうか。
「とはいえ、私はやはり【塔】の魔導士だ」
「そうかい」
パンの最後を一切れを飲み込んで、美貌の魔導士は席を立つ。
「世話になった。また借りが増えたな」
「そう思うならいつか返してくれや」
「考えておく」
それだけ答えてルビーサファイアは人ごみに消える。
「さて、どうするかねぇ」
大して困っていない様子で男は空を見上げる。実際、どうでもいいのだ。
ルビーサファイアを見かけるたびに食事をおごっているとはいえ、実際のところ出費はそうでもない。
いつでも腹をすかせている様子ではあるが、食事量が少なくパン一個で腹が膨れるというのだからお手軽だ。
一度に多くは食べられず、とはいえ腹はすぐに空くという。
まあ、餌付けを続けて靡くような相手ではないだろうことは分かっていたのだが。
「何してんだろうな、オレ」
つぶやいた言葉にはっとして口に手をやる。
思わず漏れたそれは、本心だったから。
ここは、国の王都にほど近い町。名はオトゥール。
自らが所属する【魔法協会】からの仕事でここに来た。
仕事内容は、【塔】の魔導士である彼女を【協会】にスカウトする事。
――そこまでは分かっている。
なぜ、こんな事になったのか。
お偉いさんがたの説得に、彼女が応じなかったから、とりあえず新米の下っ端をダメ元で行かせただけのこと。
なぜ、【協会】の下働きをしているのか。
自分がまだ年若く、【学院】を出て一年もたたない下っ端だからだ。
……そんなことは分かっている。ほんの、数ヶ月前までは違ったのだけれど。
つまり、結局はそこなのだろう。
学生だった頃への、あのぬるま湯への郷愁。
「情けねぇな」
社会人になるといろいろあるとは聞くが、これもそうなのだろうか。
あの頃はあの頃で……いや、現在以上に面倒ごとが多くいつも走り回っていたのだが、それすらもなぜか懐かしく好ましい。
張り合う相手がいなくなった、というのが大きな理由なのだろう。きっと。
師事をしたいと思う相手も、張り合いたい相手もいない現状に満足していない。
ただそれだけ。自らの、つまらない我侭。
とはいえ、男はそれほど腐ってはいなかった。現状に文句言ってるだけじゃ意味がないことも分かっているし、自分で変えていけばいいということを知っている。
それが長く険しい道でも。
とりあえずは【協会】内で力を得るためには、与えられた役目をこなさなければならない。
いつまでも餌付けを続けていても進展はない。
――なら、もう一度ターゲットの情報を洗い直そうかね。
さばさばとした顔で席を立ち、男は――フェンネル=オリスはとりあえず協会への帰路を辿った。